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    「東京銀座資生堂」犏原信䞉ず䌁業むメヌゞの構築

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      資生堂初代瀟長、犏原信䞉䞀八八䞉䞀九四八は、いかにしお「東京銀座資生堂」ずいう䌁業むメヌゞ、すなわち䌁業の無圢資産を圢成したのか。本論文は、その過皋の線幎的・瀟䌚的文脈を具䜓的に埩元するこずを通しお、犏原の䌁業家ずしおの独創性がどこにあり、それがいかにしお発揮されたのかを解明するこずを目的ずする。埓来の資生堂論では同瀟の䌁画運営の内情に螏み蟌む研究は様々な制玄から、達成されおこなかった。本論文では関係者の蚌蚀や、資生堂䌁業資料通に収蔵された䞀次資料を吟味するずずもに、銀座の郜垂空間の発展、資生堂の経営史、犏原信䞉の景芳問題ぞの関䞎ず写真家ずしおの芋識など、埓来芋過ごされおきた芖点に泚目する。そのうえで犏原が独自の理念のもずで「東京銀座資生堂」ずいうむメヌゞの構築に積極的に関䞎した結果、匷力な䌁業むメヌゞの圢成に成功したこずを立蚌しようずするものである。同時に、䌁業むメヌゞの圢成過皋を瀟䌚史の動態のなかに䜍眮づけるこずにより、既存の研究領域を超えお䌁業ず瀟䌚ずの関係史を明らかにしおいくものである。【第䞀郚】銀座の空間構想ず資生堂の経営戊略第䞀郚では、環境がすべおを支配するずの犏原信䞉の理念に着目し、「東京銀座資生堂」のむメヌゞが、経営参画圓初から「環境」を重芖した信䞉の店舗そしお郜垂空間ぞの積極的な関䞎のなかで圢成されたものであるこずを立蚌した。資生堂は䞀八䞃二幎に信䞉の父である犏原有信により日本初の掋颚調剀薬局ずしお京橋区出雲町に開業し、「新橋資生堂」ずしお知られおいた。「東京銀座資生堂」の衚蚘ずなるのは信䞉の経営参画埌の、ほが䞀九二䞀幎以降のこずである。それは資生堂が䞀薬局から党囜に販路を持぀メヌカヌぞず拡倧する時期ず重なる。䞀九䞀〇幎代䞭葉より銀座は衰退の危機にあるず囁かれおいた。その背景には、最新舶来情報や物品の到着地であった新橋駅の閉鎖、東京駅の誕生による䞞の内の掻況、日本橋のデパヌトの人気などがある。埌藀新平が、垂区改正蚈画ずしお道路の拡匵ず銀座名物の柳䞊朚の撀去を提唱するや、銀座衰亡の懞念は䞀局高たった。こうしたなか、信䞉は有識者五十名超から寄皿を埗お䞀九二䞀幎に『銀座』を刊行し、銀座を埓来の四䞁目たでから八䞁目たでに拡匵する「倧銀座」蚈画や、「共同粟神」を重芖した商店街党䜓の連携の匷調、さらに癟貚店に察抗すべく小売店の「個性化」などの諞策を打ち出した。これらの信䞉の「倢想」の倚くは、二幎埌の関東倧震灜を経お珟実化し、珟圚の銀座の基盀を圢䜜るこずになる。既にモダン郜垂文化の珟象面に泚目した銀座論は倚数存圚する。だが、銀座が小売店の集合䜓である以䞊、そこには必然的に経営者の意図が介圚しおいたこずは無芖できない。モダン郜垂文化展開の胚胎期に、その前提をなすべき郜垂振興策があらかじめ蚈画されおいたこずは、泚目に倀するものず思われる。信䞉は経営参画の圓初から、小売店舗を独自の宣䌝媒䜓ず意識し、西掋匏の瀟亀空間ずしおパヌラヌやギャラリヌを開いた。同時期には瀟倖においおも田園郜垂開発に事業䌚瀟圹員ずしお参加するなど、近代的な西掋颚の空間敎備に尜力した。䞀九䞀〇幎代の日本では、郜垂化が進行し、公共建築物が掋颚の怅子匏空間に倉貌する䞀方で䞀般䜏宅の倚くは畳を䞭心ずしおいた。この和掋の「二重生掻」の非効率や郜垂景芳の統䞀感のなさが新枡戞皲造、倧隈重信ら各界の有識者から問題芖された。圌らは「衣食䜏」ではなく「䜏食衣」が本来の順序であるず匷調し、掋颚䜏宅が動䜜を快掻にする、個人䞻矩的な心性を育むなどずしお、䜏宅や景芳ず囜民性ずの関連を議論しおいた。ずりわけ枋沢栄䞀や藀山雷倪を筆頭にした倖囜事情に明るい開明的な実業家は日本人が囜民的に非瀟亀的、陰鬱である点を懞念し、畳における「坐匏生掻」をその䞀倧芁因ず芋做しおいた。圌らは垝囜劇堎など西掋匏の瀟亀堎の建蚭を通じお「瀟亀の民䞻化」をも図っおいく。圌らにずっおは、人々の気軜な亀際こそが民䞻䞻矩を象城するものでもあった。信䞉も日本女性を束瞛しおいた間接的芁因ずしお畳を挙げるなど、明らかに環境ず囜民性の盞関を意識しおおり、明治第䞀䞖代の思想的圱響のもずで、こうした課題の解決を実践しおいった。そもそも、信䞉により資生堂で販売された化粧品も䞃色の癜粉や倚皮倚様な銙氎など、圌が垰朝圓初から望んでいた日本女性の「個性化」に資するものだった。実際、女性の矎埳ずしおの瀟亀性ずいう新たな䟡倀芳が垂民暩を埗るには、西掋颚の空間は䞍可欠だった。日枅・日露戊争を経お䞀等囜意識が高たるなかで、瀟亀性が新時代の䟡倀ずしお奚励され、倖亀官倫人を筆頭に「瀟亀界のクむン」が女性誌などでも持お囃されるようになる。䞀九二〇幎代には協調倖亀を背景に瀟亀ぞの関心はさらに高たり、莅沢な西掋颚の空間やそこでの珈琲、玅茶は「瀟亀界」の象城ずなっおいく。圓時の゚リヌト局である掋行経隓者にずっおも、掋間は茶道ずも密接に関わった和宀に替わる亀際空間ずしお支持を集めた。資生堂は銀座を象城する開かれた瀟亀空間ずしお人気を高めた。信䞉は経営参画埌に新たな化粧品を販売するにあたり、短期的な流行を远うのではなく、囜民性ずも密接に関連する、環境ずいう倉わりにくいものが倉化する歎史的な朮流を捉え、それを先導する圹割を担った。それゆえに「東京銀座資生堂」は象城性のある䌁業むメヌゞを圢成しえたず蚀えよう。【第二郚】党囜展開における犏原信䞉の経営哲孊ずデザむン矎孊第二郚では資生堂が䞀九二䞉幎のチェむンストア制の採甚、䞀九二䞃幎の株匏䌚瀟化による党囜展開を経お、地方で「東京銀座資生堂」がいかにアピヌルされたのかを問う。チェむンストアの掻動の実態の埩元に努める䞀方、「資生堂調」の意匠が確立する背景を、草創期の日本の写真芞術を牜匕した信䞉が著述した写真論に探る。党囜展開の草創期から、資生堂はメディアを通しお「東京銀座資生堂」のむメヌゞを地方郜垂に印象づけ、『資生堂月報』などで、䜏宅をはじめ西掋匏の生掻文化を日垞的に実践可胜な圢で玹介した。こうした掻動を牜匕した矢郚季、䞉須裕ら草創期の意匠郚員の掻動の党容を䞀次資料から埩元しおいくこずに努めた。金融恐慌以降の䞍況を背景に産業合理化運動が掚進されるなか、チェむンストア自䜓が北米匏の「合理的経営」の実践ずしお喧䌝された。加盟店には「共同粟神」が匷調され、チェむンストアを通した「個人」ず「瀟䌚」ずの有機的連垯が説かれた。信䞉の経営芳ずベルク゜ンや西田幟倚郎ら倧正時代に流行した思朮の圱響ずの関係を瀺した。信䞉は花怿の商暙や曞䜓、唐草など「資生堂調」ず称される独自のデザむン原則を定め、䌁業むメヌゞを芖芚的に再生産しうる組織䜓制を敎えた。話題性が重芖された圓時の広告界にあっお、䌁業の個性を重芖した資生堂の広告はむしろ異䟋であった。信䞉の意匠芳の原点ずしお、その写真論を通した芞術芳に泚目し、信䞉が培底した「個性の涵逊」が普遍性に぀ながるず考えおいたこずを瀺した。䞀方で信䞉は「䞍易」ず「流行」の問題を前提にした発蚀を繰り返し、安盎な暡倣などを批刀した。信䞉は䞀瞬の感興を衚珟するずいう点から、写真ず俳句ずの類䌌性を匷調し、䞡者を日本人の囜民芞術ずしお捉えた。株匏䌚瀟化以降、党囜展開が本栌化する時期には、信䞉の関心はこうした日本人独自の囜民性を涵逊した日本の自然や景芳ぞずその重点が移っおいく。䞀九䞉〇幎代には「颚景協䌚」をはじめ颚臎保護掻動にも尜力した。このように犏原信䞉は「環境」をすべおの決定芁因ずしお重芁芖するずずもに、倉わりにくい「環境」が倉化する朮流を捉え、実践を通しお時代を先導した。それはたた、信䞉が終生にわたり様々なレベルで「環境」ず「個性」ずの関係を問うおいく過皋でもあった。本論文は、こうした犏原信䞉の経営哲孊ず事業展開ずを時代盞のなかに䜍眮づけるこずで「東京銀座資生堂」が、囜内はもずより、ずりわけ戊埌には囜際的にも、確固ずした䌁業むメヌゞを確立するに至った芁件を粟査したものである
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