119 research outputs found
農村地域におけるアンケート調査の手法―「サンプリング・フリー」と2種類の調査・質問紙の使用
本稿では、今日の農村地域で調査を行なう際に必要であるにもかかわらず、ほとんど取り上げられていない農村地域の調査における手法について、事例に即して具体的に論じる。その事例とするのは岩手県田野畑村をフィールドとして実施した調査であるが、本稿では調査結果自体は取り上げずに(1)、その「手法」的な側面にだけ焦点を当てる。departmental bulletin pape
刺激独立型思考の算出と注意資源の配分に関する実験的検討
心的イメージ研究が「復活」を果たした1960年代後半以降、認知心理学においては心的イメージや夢、空想、白昼夢などといった「心の中」で生じる現象に関する研究が数多く行われるとともに、その研究の持つ重要性も広く認識されるに至っている。これらの心的現象は感覚・知覚と異なって外部からの刺激とは独立に生じるものであることから、Antrobus(1968)やSinger(1988)はそれらを総称して“刺激独立型思考(stimulus-independent thought)”という名称を与えている。そして刺激独立型思考の現象的特徴(特に心的イメージの現象的特徴)を中心とする多くの問題が明らかにされてきているが、一方でその産出過程については未だ解明されていない点が多い。今回本研究で取り上げる刺激独立型思考の産出過程と注意資源の配分の関係に関する問題も、それら未解明の問題の1つである。
一般に我々は、周囲の状況が目まぐるしく変化する場合よりも、変化の少ない単調な状況にいる場合のほうが空想をしたり、白昼夢を見たりする、すなわち刺激独立型思考を産出することが多い(Antrobus, Snger, & Greenberg, 1966)。また、我々が刺激独立型思考を産出しているとき、それにあまりに没頭していると周りの状況の変化に気づかないことがある。これらの事実は、刺激独立型思考は外部に注意を向ける必要が少ない場合に、そして心の内部に注意を向けている場合に産出されるということを示しているように思われる。これに関連する知見として、例えばRichardson(1994)は、刺激独立型思考の1つである心的イメージの産出には心の内部に注意を向けることが必要であると述べているし、またTellegen & Atkinson(1974)もイメージや空想などに没頭する人ほどそれらにより多くの注意を向ける傾向が強いとしている。
これらのことから、刺激独立型思考の産出過程と注意との間には密接な関係があると推測することができる。しかしながら、残念なことにこの推測は大きな弱点を抱えている。なぜなら、上に挙げた例やRichardsonらの主張はあくまで経験的な事実に基づくものに過ぎず、実験による十分な検証を受けたものではないからである。刺激独立型思考の産出にとって、心の内部に注意を向けることが本当に必要な条件なのか。反対に、外部に注意を向けているときには刺激独立型思考の産出は行われないのか。刺激独立型思考と注意との関係を明らかにするためにはより詳細な実験的検討が加えられなければならない。departmental bulletin pape
小学校におけるスクールカウンセラー活動の現状と課題
平成7年度(1995年)より文部省による「スクールカウンセラー活用調査委託研究」が始まり、臨床心理士などが学校現場にスクールカウンセラー(学校臨床心理士)として派遣された。「いじめ」や「不登校」を中心とした学校問題の解決にあたっては、スクールカウンセラーがクローズアップされることが多いが、週8時間の勤務体制、1つの配置校への派遣期間が2年間に限られている現状では、スクールカウンセラーには何ができて、何ができないのかということを十分に考慮しながら活動する必要がある。
ところで、学校臨床について近藤(1994)は、その視点が「個人から関係、そしてシステムへ」移行してきていると述べている。また、鵜飼(1995)は学校臨床で、個人を中心とした心理療法に留まらず、コミュニティ心理学的視点を持った新しい心理臨床的援助の方法が必要であると述べている。コミュニティ心理学とは①個人の精神衛生だけではなくマスの精神衛生に対して、②治療中心という考え方に対して予防(地域社会の精神衛生問題への対処能力の増大)中心に考え、③地域社会のキーパーソンや人々と共に考えていこうとする考え方であり、その具体的な手法が「コンサルテーション」である(山本,1986)。
スクールカウンセラー活動と一口で言っても、児童生徒の発達段階などから、小・中・高等学校では、活動の内容や方法が異なる。筆者は、自らのスクールカウンセラー活動の経験から、小学校の場合は、子どもへの心理面接だけではなく、担任や保護者への心理面接が極めて重要であると感じている。従って筆者は、小学校のスクールカウンセラー活動では、保護者への心理面接や教師へのコンサルテーションに重点を置いているが、他にどのような援助方法があるのだろうか。そこで、平成7・8年度に全国29校の小学校に派遣されたスクールカウンセラーの活動内容を検討し、課題と問題点を考察した。departmental bulletin pape
コミュニケーション理論としてのルーマン理論再考
コミュニケーションをするのは人間ではない。コミュニケーションだけがコミュニケーションできる。
ルーマンの社会システム理論は、数ある社会学理論のなかでも、もっとも難解な理論のひとつだと言われている。冒頭に挙げたのは、そうしたルーマン理論の根幹をなす命題のひとつである。おそらく、多くの人はこの言葉に違和感をもつであろう。私がルーマンの社会システム理論を勉強し始めて一番はじめにつまずいたのも、これだった。「意味がわからない」と思った。しかしルーマンの著作を読むにつれて、だんだんと納得がいくようになってきた。むしろ、こうしたルーマンの考え方は、わたしたちが生きる「現実」に、非常に適合的だと思うようになった。
ルーマンの社会システム理論はおもしろい。しかしながら、ルーマンの難解なテキストをわかりやすく解説するような論文はほとんど見当たらず、そうしたおもしろさはルーマン研究者のあいだでしか共有されていないと言ってもよい。
そこで本稿では、冒頭に掲げたルーマン理論の中心命題をもとに、広範囲にわたるルーマン理論の一部をできる限りわかりやすく解説し、その上で、コミュニケーション理論としてのルーマン理論の意義について考えていこうと思う。departmental bulletin pape
青年世代に見る人間関係希薄化の問題―秋葉原事件を事例とする考察
2008年6月8日午後、日曜の歩行者天国で賑わう秋葉原の交差点で、26歳の青年が7人死亡10人重傷という無差別殺傷事件を起こした。この秋葉原事件は人々に大きな衝撃を与え、直後からマスコミの集中報道が続き、事件をめぐって数多くの論評がなされたが(注1)、報道・論評において注目されたのは無差別大量殺傷という事件の凶悪さよりもむしろ、犯人Kの犯行に至るプロセス・背景である。
「無差別殺傷事件」とは、犯人と特定の関係性がない人々が殺害される事件であるが、社会的に衝撃を与えるのはその「凶悪」性ではなく犯行が常識では理解できないというその不条理性であり、それ故にその社会的な背景要因が注目されるのである(注2)。
秋葉原事件が社会学的にも注目される理由は、この事件が「<現在>の全体を圧縮して代表(大沢真幸)(注3)しており、事件は「戦後日本に何回かあった大きな転換点の一つ」(見田宗介)(注4)と見られるからである。この事件は現代日本社会、とりわけ青年世代が直面する人間関係の希薄化問題(注5)を考察する<範例>(注6)となる。
この事件は、①Kの犯行までの生活体験に現代青年の人間関係の問題性が典型的に表出されていて世代論的に論じるのに妥当な<範例>であるとともに、②反響の大きかった事件なので事例として考察するための情報が多く、③社会的な関心が大きいので読者に分かりやすい事例ともなる点でも<範例>(注7)に適している。
本稿の課題は人間関係希薄化問題の検討であり、犯行要因の究明自体を課題としているのではないが、考察の<範例>に適していると言えるためには、犯人Kの人間関係の希薄さが犯行要因として重要であったことが前提となる。そこで、はじめに犯行要因をめぐる議論を検討し、その後でKのケースを<範例>として青年世代の人間関係の問題点を明らかにしてゆく。departmental bulletin pape
「公衆」として学問に関わる意味―ブラウォイの「公共社会学」論からの示唆―
「学問にはどんな意義があるのか」という疑問や悩みをもつことは、近年少なくなったと言われるが、恐らく現在も大学では、漠然とであれ新入生から教師まで一度は持たれる問いであろう。それは大学卒業後の人であれば、学問・研究に関わらない立場で学問と関わる意味は何かという問題であり、本紙の読者には職業上の専門知識との関係なしに<行動科学>という学問に関わる意味は何かという問題で、より広げて言えば<行動科学>(注1)という学問は私たちの生活でどのような意義をもつかという問題である。
この『現代行動科学会誌』の読者である現代行動科学会会員の大半が<行動科学>を学んだ卒業生であるが、職業として学問(教育・研究)に関わる人は一部であるし、臨床心理学関連の専門職のように<行動科学>が職業的な専門知識として必要とされている人々も多数派ではない。大多数の会員にとっては職業上の「専門知識」と直結しないとすれば、その<行動科学>の学問的な知識はどのような意味を持つのであろうか。
本稿では以上の問題について、<行動科学>をひとまず「社会学」に置き換え、私たちの日常生活において社会学がどのような意味をもつかという問題として、M.ブラウォイの「公共社会学」論を踏まえながら考えてみたい。
ブラウォイ(Michael Burawoy)は公共社会学論に関する論文を2004年以前にもいくつか著しているが、中心となるのはアメリカ社会学会における会長講演(2004年)をそのまま活字化した次の論文である。講演の全文はきわめて明晰なもので、その後に書かれた論文で取り上げられている論点が、本稿に関連する限りではすべて展開されている。
Michael Burawoy, 2004, For Public Sociology PRESIDENTIAL ADRESS, American Sociological Review, 2005, Vol.70(February:4-28)
本稿におけるブラウォイの紹介は主としてこの論文に基づいており、その引用や参照箇所は単に該当頁だけを付記する。引用文中の「・・・・」は省略を、「[]」は原文にない補いを示す。なお、本稿の「注」は研究論文の作法としての論拠の提示や補足であり、本稿の内容自体は本文だけでも理解されるのではないかと思う。
本稿の1~4節はブラウォイの公共社会学論の―本稿の主張の基礎となる部分の―紹介で、5~6節がブラウォイの議論を踏まえた筆者の主張である(注2)。departmental bulletin pape
釜石の待機児解消に自発的に取り組むママたち
「母と子の虹の架け橋Jは、「ママハウス」 と言う“ママと子の居場所空間“、”ママのエンパワメント”のための各種講座の受講機会を提供している。ママハウス開設の平成23年(2011)年9月にはママの“しゃべり場”(助産師・看護師・家庭相談員)を設けていた。その家庭相談の場で、ママから「仕事が見つかったが、仕事を流した」との話が出た。なんとかすべきだ。此処は被災地ではないか。許せることなのかと、保育の拠点場所がないかと探し始めた。幸にして、当時、「ママハウス」 の開設地の平田第6仮設団地の当時の自治会長から、“我が家の1階をお貸ししましょう”とビルの1階の提供を受けることとなった。そこで、年度の切り替えが迫っていた春、助成金の申請を行ない、平成24(2012)年5月には一時預かりの「虹の家」 が開設できた。
浸水した地域ではあるものの、歩いて2~3分の高台には仙壽院と言う避難場所が有る。子供を連れて5~6分程度だ。非常の際を考慮し、子ども3人に1人の保育者という体制にした。いざ、避難という時には、背中に一人、両腕に一人づつ抱いて逃げると言う体制である。本論では、「虹の家」の取り組みによって、預けたいママが保育者として就労できるようになった経緯を報告していきたい。departmental bulletin pape
図式的投影法を用いたフォーカシング
『人間性や「心」の探究にとって、イメージの問題は欠かすことのできない重要な問題になってきている。』(水島 恵一,1988)
人がものごとを感じる際、そして考える際にも使われるものにイメージがある。また夢もある種のイメージ体験と考えてもいいであろう。そのようにイメージは思考のためのシミュレーションの道具でもあり、視覚的な像をともなって現れることもある。何となくコトバでは言い表すのが難しいようなことも「~という感じ」といったニュアンスで使えるし、「企業イメージ」というような場合の「~像」にあたる使われ方もする。物理学や電子工学のモデル図から、抽象的な絵画まですべてが皆、イメージだとも言えるだろう。このように非常に多岐にわたる領域でイメージは活躍している。意識的に操作することのできるものもあるが、振って湧いたような突然のインスピレーションは常識的・理論的な思考からは決して生まれてこないような新鮮な驚きをもたらす。一見矛盾した機能を持ち合わせるかのように見えるイメージはそれだけに神秘的であり、豊かな可能性を秘めているように思われる。領域が広範で定義が曖昧なだけに、むしろなにかに定義されることのない定義から自由な「イメージ」だからこそ、期待もされるのだろう。イマジネーションは「想像」であり、同時に「創造」でもあるのである。
臨床心理学の分野においてもイメージが重要な働きをすることは従来から言われてきたとおりである。筆者は以前に芸術療法、なかでも描画法の一つである風景構成法について考察し、イメージへの関心を持った。そこでさらにそれを深めてみたい、イメージのつかさどる伝達の役割にも目を向けてみたいと思った。
本論を始めるにあたって、筆者の持った問題意識は次のようなことである。セラピー場面において、セラピスト(聞き手)がクライエント(話し手)のこころの動きや、クライエントの持つイメージを、なるべくクライエントに近いかたちで理解するためにはどうすればよいであろうか。また治療の“場”の流れをよりダイナミックに捉えるには、どのような工夫がなされるべきか。些細なズレや誤解が、カウンセリングやセラピーをしばしば失敗へと導くといわれる。筆者は治療場面の経験はまだないのだが、日常生活の対話においてでさえ、うまく自分の感じていること、思っていることを言葉にして伝えられない、あるいは言葉が足りなくてどうも正確なニュアンスまで伝えられない、というもどかしさを感じることがしばしばある。これはなにも筆者に限ったことではないであろう。もしその思いをうまく相手に伝えることができたなら、どんなに嬉しいだろう。なにかそれを実現するためにいい方法はないものだろうか、またそのための方策は治療場面にも活かしていけることだと思う。departmental bulletin pape
inner speech と音韻的ワーキングメモリー
我々の多くはふだん、何かについて考えたり、物思いにふけったりするときに頭の中でことばを話す。また小説やテレビドラマなどにおいても、登場人物が頭の中で思っていることはしばしば内的なモノローグとして表現されることがある。このような「頭(心)の中でことばを話す」という広く知られた現象(心的現象)に対して、心理学では「inner speech」という用語を与えている。しかしこの inner speech という語で指し示される内容は今日の研究者たちの間で完全に一致しているとは言い難い。それどころか、 inner speech という語を用いるとき、研究者たちはそれを心理学的な用語としてではなくもっと一般的で自明な語として用い、そうすることによってその明確な概念規定を避けようとしているように感じられる。なぜこのような状況が生じているのか。その大きな原因は、これまでの研究において inner speech を「頭の中でことばを話す心的現象」という観点からとらえ、その心的現象としての側面を問題にしたことがほとんどなかったことにあるのではないかと思われる。そのため inner speech が心的現象としてどのような性質や特徴を持っているのか、現時点ではまだまだ解明されていないと言っても過言ではないのである。
本論文では、このような問題関心に基づいて inner speech を「頭の中でことばを話す」という心的現象としてとらえる。そしてこうした観点から inner speech の研究をすすめていく上での理論的基盤を構築する1つの試みとして、心内で inner speech を経験することにはどのようなメカニズムが関与しているのか、ということについて考えてみたい。そしてその際に注目するのが、今日の認知心理学において最もよく知られた記憶モデルの1つであるワーキングメモリーモデル、特にその構成システムの1つである音韻ループと呼ばれるシステムである。以下ではまず始めに inner speech の特徴について考察した後、ワーキングメモリーモデルについて紹介し、それらに基づいて inner speech と音韻ループシステムとの関係に就いて議論してみたい。departmental bulletin pape
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