モノガタリロン カラ サイコウ スル パラアスリート ノ ヒョウショウ タシャカ カラ リンジンカ エ

Abstract

学習院大学Gakushuin University博士(表象文化学)Doctor of Philosophy in Cultural Studies on Corporeal and Visual Representation本研究は,パラアスリートを題材とした表象に着目するものである.パラアスリートの表象は,彼らの障害のある身体を如何に描くか(描けるか)という課題を抱え続けており,たとえ世に発信されたとしても,削除や変更を余儀なくされることが珍しくない.こうした状況は,それぞれの作品を体系的に評価したり,位置づけたりすることを困難にしている.と同時に,視点を定めた議論を十分に積み重ねることができていないという学術的な課題にも繋がっている.以上の問題関心のもと,本研究では,パラアスリートの表象を体系立てて評価するための参照軸を打ち立て,その参照軸にもとづいた分析をとおして,パラアスリートをめぐる表象全体の様相を明らかにすることを目的とする.この目的を遂行するために,本研究は五つの章と一つの補論から構成される. 第一章では,障害表象の歴史的変遷を検討することで,パラアスリートの表象に関してどのような観点のもと議論することが可能なのかを見出していった.一般大衆に対しても障害表象が直接に受容されていたという点から,見世物文化まで遡り,次いで慈善的な障害表象,そしてパラアスリートの表象という流れで変遷を辿ることにした.見世物文化については,日本の見世物小屋と西洋のフリーク・ショーにおける当時の興行記録を中心に参照した.慈善的な障害表象については,「ポスター・チルドレン」と呼ばれる障害児の表象や今日のチャリティ番組を代表する『24時間テレビ』などの事例をもとに検討をおこなった.パラアスリートの表象に関しては,パラリンピックの報道とその考察をしている先行研究をもとに確認を進めた.こうして変遷を丹念に紐解いていくと,その共通点として「物語」というものが浮かび上がってきた.障害のある身体に対するイメージは,常に物語をとおして形成されてきたのである. 第二章では,障害表象の歴史的変遷を辿るなかで導き出された「物語」という観点を,より精緻にすることで,本研究全体を貫く研究視座を準備した.精確にいえば,パラアスリートの表象を「物語」の観点から考察するための具体的なアプローチを探査していった.このとき,まず押さえておく必要があるのが,そもそも物語とは,どのような表現形式なのかという点である.物語論や文学理論,その応用可能性を説く研究を概観すると,物語には意味の単位に関わる次元と意味同士の結びつきに関わる次元があることが窺えた.そこで本研究では,これら二つの次元にもとづきながら,「物語として表象するとは,どのような過程なのか」を整理していった.また,物語を構造的に読み解く視座が整えられたところで,「物語としてのスポーツ」に関する研究へも視野を広げていった.実際にスポーツにみられる物語を把握するために,どのような手法が採用されているのかを探査するためである.そして多くの研究が,メディア・テクスト分析という手法をもとに,スポーツにみられる物語を解釈していることが示唆された.一定の実証的な成果が認められることも踏まえて,本研究においても有効なアプローチとして採用することにした. 本研究を貫く分析手法が定まったところで,第三章(補論を除く)からは具体的な作品を取り上げて,分析と考察をおこなった.こうした実証的な試みは,それぞれにパラアスリートをめぐる表象の一端を捉えようとしたものである.その意味では,分析によって得られた結果の一つひとつが,パラアスリートをめぐる表象全体の様相を描き出すことに資する示唆を含んでいるといえる. 第三章では,『スポーツ大陸』及び『アスリートの魂』に対する分析をとおして,パラアスリートが表象されるときに典型的に認められる物語のパターンとその特徴に迫った.分析の結果,〔栄光〕→〔障害による絶望〕→〔スポーツによる救済〕→〔努力〕⇄〔挫折〕→〔再起〕というパターンが認められ,本研究では,これを典型的な物語構造と呼んだ.こうした決まりきった意味の流れが,パラアスリートに対して固定的なイメージを与え続けてきたといえる.また,従来の障害観に疑問を投げかけるような描写も一部で認められた.ところが,典型的な物語構造では,変化や抵抗の兆しを内包しつつも,それを埋没させることによってわかり易い筋書きを強固に維持していることが明らかとなった.こうして他の物語へと分岐していく可能性が封殺され,障害の克服を煽る物語ばかりが,再生産され続けてきたのである. 一方で,「物語」という参照軸は,そこから外れる表象の考察も可能にする.こうした意識のもと,第四章ではチャンネル4が制作したSuperhumansシリーズを取り上げ,そのテクストの分析を試みた.分析の結果,「間身体性」にもとづく感覚運動的な共感を生起させる描写と,障害者に対する「まなざし」に関わるような描写が認められた.チャンネル4は,言語的説明にほとんど頼らず,障害のある身体が味わってきた経験を視聴者に追体験させることによって,障害そのものを伝えようとしたのである.と同時にSuperhumansシリーズは,障害のある身体を表現する上で,「物語」は必須ではないことを示した事例と位置づけられる.こうした物語を必要としない表象が現れたことで,パラアスリートが限定的な意味付与やイメージから解放される局面が開かれていったのである. ただし,物語による意味づけの誘導から離れることは,パラアスリートの存在が単なる記号として消費される可能性も併せもつ.この点については,補論として触れている.具体的には「ダイバーシティ&インクルージョン」の文脈で表象されるパラアスリートに焦点をあて,記号として消費される可能性に迫った.その結果,パラアスリートが共生社会の実現という大義名分のもとで,ダイバーシティ推進に向けた一つの目玉商品ように扱われていることが示唆された.パラアスリートの存在から,それぞれがもつ個別具体的な背景が剥ぎ取られ,アイコンといえるほど単純化していたのである.これは「ステレオタイプ」の一つの形態といえ,容易に「他者化」に繋がる表現といえる.こうして物語からの解放は,記号として消費される局面もまた開いていったのである. これらの局面がパラアスリートをめぐる表象全体を覆いつつあるなか,とくに彼らの存在が記号として消費され,「他者」として捉えられる現状とどのように付き合っていけばよいのか.この問いに対する一つの応えを見出せたのが,第五章で扱った『WHO I AM』プロジェクトに対する分析である.この作品では,物語構造のなかにいくつかの「空所」を設けることにより,「ステレオタイプ」を拒絶し,パラアスリートに対する「他者化」の発生を退けていることが看取された.そこには「我々」と「他者」を区切るために恣意的・人為的に引かれてきた境界線を,無力化する契機が認められたのである.本研究では,これを「他者化」と対置するものとして,「隣人化」と定義した. そして結論では,この「隣人化」の契機を有する表象が開いていく可能性について論じた.とくに自己と他者をめぐる関係性の結びなおし,及びそこから生まれる寛容さについて考察を深めていった.その上で,本研究が辿り着いた景色として,自己でもあり他者でもあるという感覚と,それにもとづいた想像力や相互理解によってつくられていく社会を提示した.application/pd

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Last time updated on 27/01/2026

This paper was published in Gakushuin University Repository.

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