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ショウケンコウタイゴウ ノ ヨウソウ オヨビ ツウヤク カガワケ シリョウ ニ ミル カガワ シホコ キタジマ イトコ ヤマカワ ミサオ ジョウ
application/pdfdepartmental bulletin pape
Utilizing Interactive Generative AI and English Education Enrichment: Integrating Interactive Generative AI as a Learning Companion in the Classroom
application/pdf本稿は、「英語教育エンリッチメント」という概念を提唱し、対話型生成AIの活用が学習者中心の英語学習・教育の実現と我が国が現在抱える教育課題を解決する手段の一役を担う可能性の模索を目的とする。対話型生成AIの登場により、英語の学び方だけでなく、英語を学ぶ意義、学ぶ内容、さらには学び方そのものが大きく問われている。同様に、英語の教え方や教える意義、教える内容、指導法についても再考が求められている。その一方で対話型生成AIは、我が国が現在抱える教育課題を解決する手段になり得る。約半世紀前から唱えられている学習者中心の英語教育が可能になるかもしれない。画一的な教育から個別最適な学びと協働的な学びの実現、グローバルに活躍する人材育成やイノベーションを牽引する人材育成に向けた取組みに吉報となるだろう。教育の「エンリッチメント」は、一部の個性的な素質や素養を持つ学習者にとどまらず、すべての学習者へより適切な学習環境を提供することを目指す。対話型生成AIの活用により、学習者各々の興味関心と学び方、才能に合わせる「エンリッチメント」教育を実現させる可能性も生まれてきた。This paper proposes the concept of “English Education Enrichment” and explores the potential of utilizing interactive generative AI as a means to facilitate learner-centered English learning and teaching while also addressing the educational challenges currently facing our country. The emergence of interactive generative AI has prompted fundamental questions not only about how English is learned but also about the purpose of learning English, what should be learned, and how learning itself should take place. Similarly, it has necessitated a reconsideration of how English is taught, the significance of teaching, what should be taught, and the methods of instruction. Interactive generative AI provides a means to address some of the pressing educational challenges currently facing Japan. It offers the possibility of realizing learner-centered English education, a concept that has been advocated for nearly half a century. This shift from a one-size-fits-all approach to personalized and collaborative learning aligns with broader efforts to cultivate globally competent professionals and foster individuals who can drive innovation. The concept of “enrichment” in education aims to provide more suitable learning environments not only for select individuals with exceptional abilities but for all learners. The integration of interactive generative AI has opened new possibilities for realizing enrichment-based education, allowing instruction to be tailored to each learner’s interests, learning styles, and talents.departmental bulletin pape
Writing Histories of Japanese Literature in Italy : Past, Present, and Future
application/pdfResearch Articlesdepartmental bulletin pape
“Shoujo” and her media: The cradle of “Shoujo-Manga”
application/pdf成果報告departmental bulletin pape
Compilation list of example sentences for the study of “rasaru” forms (spontaneous and possible) in East-Japanese dialects.
application/pdf本稿では、北海道方言としても著名である動詞表現「動詞+らさる/動詞+さる」形式について、北海道方言を除いた本州東日本方言での用例の一覧表を研究資料として提示するものである。具体的例としては、例えば「北海道生まれのポテトチップ、たべらさる豚丼味」のようなものである。この「動詞+(ら)さる」形式は、意味としては主に「自発」を表すとされているが、「可能」「意思」としても指摘されている。また、名称としては、「動詞表現」のほか「可能表現」「動詞接辞」等とも呼ばれている。動詞表現としては「らる」形式も含まれ、また、その否定形である「~さらない・~さんない」も取り上げられてきている。これまで、主として北海道および本州東日本地方の方言として、多くは道・県の単位で報告され研究されてきた。掲載した用例一覧は、本州東日本方言におけるこの「ラサル」形式に
関する主要な先行研究論文に掲載されているものを収集し整理したものである(今回は北海道方言を除く)。今後の比較研究のため、研究資料として提供する。なお、後掲の「用例文集成」の表は次のQR コードで生データとして提供する。https://docs.google.com/uc?export=download&id=1WtEx7WlFgEjoACxsv7dD5wvi9QyqIS99This study presents a list of examples of the verb expression “verb + rasaru/verb + saru” form, which is prominent in the Hokkaido dialect, as research material. For example, “Hokkaido-made crisps, tabe ra-saru pork bowl-flavoured”. This “verb + (ra)saru” form is considered to mainly express “spontaneity” as a meaning, but is also noted as “possible” and “willing”. As names, this is also referred to as “verb expression”, “possible expression”, “verb affix”, and so on. Verbal expressions have also included the “raru” form, and its negative form “~saranai/~sannai” has also been adopted. The dialects have been reported and studied mainly in Hokkaido and the eastern Honshū region, often on a provincial/prefectural basis. The list of examples in the current study is a collection and compilation of those published in major previous research papers about the eastern Honshū dialects. This work is provided as research material for future comparative studies.調査報告departmental bulletin pape
ショクム チョサク ニオケル ギョウム ニ ジュウジ スル モノ ノ イギ ト ロウドウホウ ジョウ ノ ロウドウシャ ガイネン トノ カンケイ ニツイテノ イチコウサツ
application/pdf論説departmental bulletin pape
ソウゴウ ガクシュウ ノ タンサクテキ キョウイク カテイ ヘンセイ ノ イギ ニツイテ ショウガッコウ 6 ネンセイ ノ シャカイカ オ オウダン シタ タンキュウ ガクシュウ オ ジレイニ
application/pdf研究論文departmental bulletin pape
ダイ1キ ツジ クニオ サホコ フサイ オウフク ショカン ショウワ 27ネン 1952 32ネン 1957
application/pdfdepartmental bulletin pape
プラトン ギサク テアゲス ケンキュウ
学習院大学Gakushuin University博士(哲学)Doctor of Philosophy in Philosophy本論文は、プラトン(偽作)『テアゲス』を古代での受容や真偽問題および、対話篇そのものの内容吟味も含めて、包括的に読み解くことを目的とする。古代において、『テアゲス』はプラトンの真作だと一致して認められていた。少なくとも、『テアゲス』の偽作性を糾弾する古代のテクストは存在しない。それにもかかわらず、19世紀ドイツの古典文献学者たちによる極めて厳密な真偽判定の結果、『テアゲス』を含む、多くの作品が偽作の烙印を押された。現在はこうした状況からの揺り戻しが起こり、ほとんどの対話篇が復権されたものの、取りこぼされた対話篇も存在する。そして取りこぼされた対話篇は、偽作のレッテルの下、研究対象とはみなされてこなかった。この傾向は、特に日本で顕著である。こうした状況に一石を投じることも、本論文が目的とすることの一つである。
本論文は二つの部分から構成される。第1部「真偽問題とテクストの受容」では、『テアゲス』を対象とした真偽問題および、『テアゲス』のテクストの受容を取り上げ、真偽問題に関する従来の主張の妥当性を再検討する。第2部「『テアゲス』の統一的解釈」では、『テアゲス』の内容を登場人物や場面設定から吟味し、『テアゲス』の著者が―それがプラトンであるか否かを問わず―どのような意図を持って『テアゲス』を執筆したのかを明らかにする。
第1部は、第1章と第2章から構成される。第1章「Platonicをめぐる言論―近現代における『テアゲス』真偽論争―」では、『テアゲス』の真偽問題を詳細に取り上げた。先にも述べたように、『テアゲス』が偽作と認定されるようになった原因の多くは、19世紀ドイツの古典文献学の研究にある。しかしなぜ、当時の研究者たちは『テアゲス』を偽作とみなしたのか。本章では『テアゲス』の真偽問題に関する論述を、その発端である19世紀ドイツの古典文献学にまで遡り、再検討した。具体的にはフリードリヒ・シュライアマハーとフリードリヒ・シュレーゲルによる「プラトン著作集」のドイツ語翻訳プロジェクトにまで遡り、真偽論争はその発生当時から、解釈者同士のプラトン観をめぐる争いであったことを明らかにした。その上で、現代において『テアゲス』を偽作とする主張もまた、そのような主張の前にあるプラトン観に基づいたものであることを指摘した。『テアゲス』を偽作と断定するための客観的証拠はないのである。また他方、少ないながらも、『テアゲス』を真作と主張する研究者も存在する。本章では、それらの研究者の判断に一定の説得力があることを認めるが、やはりそれらの判断も、客観的証拠に基づいたものではないことを指摘した。以上のように、真偽の判定に関連した多様なプラトン観および、プラトン対話篇の読み方が提案されていることに鑑みて、本章では『テアゲス』の真偽判定を積極的に保留するべきだと論じた。
第2章「古代における『テアゲス』の受容―プルタルコスのダイモニオン解釈をめぐって―」では、中期プラトン主義者に分類されるプルタルコスに注目し、古代における『テアゲス』受容の一端を探った。具体的には、残存しているプルタルコスの著作『ソクラテスのダイモニオンについて』におけるプルタルコスの主張を検討することで、すでに散逸してしまった彼の著作『プラトンの『テアゲス』擁護のために』の内容を推測した。本章の議論により、古代に『テアゲス』を偽作とするテクストが存在しなくとも、『テアゲス』は偽作である可能性が高いとみなしている、現代の研究者の見解が批判される。
第2部は、第3章から第7章で構成される。第3章「『テアゲス』の構造と著者の意図」では、『テアゲス』で展開される対話とその構造、および、主要な登場人物に注目することで、『テアゲス』の著者がどのような意図を持って『テアゲス』を執筆したのかを明らかにした。その結果、本論文の骨子となる二つの主張を導出した。一つは、「『テアゲス』の著者はソクラテスを哲学者として描いている」というものであり、もう一つは、「『テアゲス』の著者は、テアゲスが哲学へと導かれる様子を描いている」というものである。『テアゲス』に以上のような主張と構造を読み込むことで、『テアゲス』の著者は『テアゲス』を、「プラトン哲学入門」として描こうとしているのだと論じた。 第4章と第5章の考察は、第3章の結論を補強するものとなっている。第4章「登場人物と場面設定の意味―『テアゲス』と『カルミデス』の比較―」では、『テアゲス』と『カルミデス』の両作品に登場しているカルミデスの描かれ方に注目することで、『テアゲス』にカルミデスが登場している意味を探った。その結果、カルミデスは哲学へと適切に導かれなかった人物として描かれており、このことが逆説的に、テアゲスが哲学へと成功裏に導かれたことを示しているだと主張した。つまり『テアゲス』に登場するカルミデスは、テアゲスという人物の特性を引き立たせるための装置なのである。そしてこの結論から、『テアゲス』の著者は、『テアゲス』という作品が持つプラトン哲学入門としての機能を高めようとしていると論じた。
第5章「人間の限界とダイモニオン―『テアゲス』(128D1–129D8)の解釈―」では、『テアゲス』で描かれているダイモニオンの逸話に焦点を当て、この箇所でのダイモニオンの役割を論じた。従来、当該箇所でのダイモニオンは、プラトンのその他の対話篇からの逸脱とみなされていた。しかし本章では、こうした従来の見解を批判する。そして、『テアゲス』で描かれているダイモニオンは、その他のプラトン対話篇と整合的に解釈可能であると主張した。特に、ティマルコスが死刑になった理由の説明に際して言及されるダイモニオンは、その超越的能力の不安定性が強調されているのではなく、ソクラテスが持つ人間としての限界を超えさせないことを意図したものであると解釈した。この解釈により、『テアゲス』で描かれているソクラテスは、プラトンが描いたのと同じ、哲学者としてのソクラテスであると明らかにした。
第6章「哲学することと神的存在―アリステイデスの逸話とθεία μοῖραの意味―」では、『テアゲス』解釈における最大の争点の一つである、アリステイデスの逸話の意味を考察した。
従来、当該箇所は『テアゲス』の著者が『テアイテトス』および『饗宴』を曲解した場面であるとして、顕著に非プラトン的とみなされてきた。しかし本章では、それらの従来の解釈を退け、アリステイデスの逸話を新たに解釈することを試みた。本章で注目したのは、ソクラテスがダイモニオンの説明を導入する際に用いた「神の定め」(θεία μοῖρα)という語である。θεία μοῖραという語はその他のプラトン対話篇でも使用されている。この語の意味の一つには、「人間のコントロールを超えたもの」というものがある。ここでの「人間のコントロールを超えたもの」に、哲学ならびにその実践が含まれるというのが、本章の解釈である。その上で、『テアゲス』の著者は、ダイモニオンがソクラテス以外の他者にも現れうることおよび、ソクラテスから他者へとダイモニオンが伝播していく可能性を描くための原理として、θεία μοῖραという語を用いたのだと論じた。その結果、アリステイデスの逸話は、こうしたθεία μοῖραの作用に与れなかった人物による、失敗談としての意味を持っているのだと結論付けた。
第7章「哲学の勧めと神的存在―『エウテュデモス』におけるダイモニオンの出現について―」では、『テアゲス』そのものの解釈からは離れ、『エウテュデモス』に現れるダイモニオンの解釈を行った。『エウテュデモス』には『テアゲス』同様に、その他のプラトン対話篇からは逸脱していると思しきダイモニオンの描写が存在する。それゆえに、『エウテュデモス』でのダイモニオンに積極的な解釈がなされることは少なく、その重要性は割り引かれてきた。本章では『エウテュデモス』におけるダイモニオンもまた、『テアゲス』を含んだその他のプラトン対話篇と同様に、ソクラテスの行為の正不正に関わっていると解釈した。さらに、この解釈を前章までの『テアゲス』解釈と結びつけることにより、ソクラテス以外の人間にも、ソクラテスと同様に、ダイモニオンと共に哲学する可能性が開かれているのだと結論付けた。
以上のように本論文は、『テアゲス』に真偽判定を下すことを積極的に保留することで、真偽問題という既存の枠組みそのものを批判しつつ、『テアゲス』の内在的解釈によって、『テアゲス』の著者が『テアゲス』をプラトン哲学入門として描いていることを明らかにした。application/pdfdoctoral thesi