Shiba Yoshinobu

斯波 義信

Yoshinobu Shiba

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35このたび，学習院大学史料館，細川家の永青文庫，及び東洋文庫という 3 機関がひとつに協力いたしまして，東洋学に関する知識の普及に積極的に乗り出そうということになりました。差し当たり，学習院大学をフォーラムの場として第 1 回のシンポジウムがここに開かれまして，誠に有意義なことだと存じます。この記念すべき会にお招きいただきまして，来賓のお歴々の皆様を前にしてお話をさせていただくことになりまして，光栄の至りと存じます。さて私どもの東洋文庫が岩崎久彌氏によって剏立されましたのは 1924 年 11 月 19 日ですが，そのお披露目の席で，初代の理事長でありました井上準之助氏がスピーチの中で「東洋文庫を日本の東洋学のメッカ（拠点）にしよう」という抱負を述べられました。これにどういう意味合いが込められていたのかを，ここに少し補わせていただきます。その第１点ですが，この剏立時に蔵書の礎石でありました「G. E. モリソン文庫」と「岩崎文庫」（当時は寄託中）を以て，「保存図書館」に止まらせるのではなく，「研究図書館 research library」として発展させようという意気込みです。もともと「文庫」は和語の「ふみくら」ですが，むしろ「現代に生きる文庫」を目指そうという希望です。つぎに「東洋学」と「その拠点」の意味合いです。幕末から明治初期に「東洋（アジア）の中の日本」を知る，「世界の中の東洋」を知る，知らなければならない，という願いは，各方面から澎湃として起こりました。ところが，漢学，悉曇学（サンスクリット学），洋学（蘭学）の知識を総ざらいしても，また堂上家，将軍家，諸大名家，古い寺社が所蔵する古籍の文庫を総動員しても，この願いを充たすには甚だ不十分でした。哲学，宗教，芸術の分野ならばともかく，データの裏付けを必須とする歴史，言語，社会科学の分野では，知識の空白はまさしく切実な問題でした。すでに漢学があるではないかという声が出そうですが，漢学や漢籍は「一国中心主義」，「中央に厚く，地方や周辺，渉外に薄い」，「“雅”に片寄り“俗”を疎んじる」という明らかな不均衡のために，知識の穴がそこかしこに潜んでいます。東洋の先史学，考古学，民俗誌，人類学，外交史，社会史，経済史の知識や資料を得たくても，漢学からそれらをレディーメ東洋学のおこりと東洋文庫斯波　義信成果報告1　「東洋学の歩いた道」シンポジウム（学習院大学史料館講座より）学習院大学国際研究教育機構研究年報　第 1 号36イドに用立てることはできません。客観的また科学的で世界にも通用するような東洋に関する知識を新たに構築する動きが始まったのは，1880 年代です。国立の総合大学が東京大学 1校だけだった当時，1885 年に新規に生まれた史学科に，お傭い外国人としてルートヴィッヒ・リース氏というドイツ人が招かれまして，1886～1902 年にかけて教鞭をとりました。リース氏は 3 点セットの提案をして 1889 年に実現しました。第 1 は教育・研究の教科として国史学科をつくること。第 2 は会員制の学会（史学会）をつくり機関誌（史学雑誌）を発行すること，第 3 は近代的な史学のための史料館（史料編纂所）を設けることです。前後して，これもお傭い外国人の提案で，日本人類学会が 1884 年，日本考古学会が 1895 年に，機関誌を伴って発足しました。リース氏が教えた歴史の方法論および史料学は，西欧ではすでに確立され，やがて世界中で共有される性質の基礎的なものでした。パラダイムは時流に即して変遷しますが，史学方法論や史料学はもっと根源的な，共通語とでもいうべきものです。これを実践する上でリース氏が薦めたものは，1 つは文献証拠だけでなく考古学，先史学，歴史地理，人類学，民俗学などを含めて広い視野で東洋を考えること，もう 1 つは東西交渉史の解明でした。ちなみに，当時はまだ西洋史，東洋史という分野が生まれる前でして，今で言う世界史は「歴史地理」という名の下で教えられていました。リース氏の教えを学んだ人々は 15 名ほどが分かっていますが，この中から国史，西洋史，東洋史，地理学の第１世代のリーダーが生まれました。その 1 人の白鳥庫吉氏はリース氏が来日した直後に入学し，史学会剏設に当たって大いに尽力しました。不思議な因縁ですが，のちに東洋文庫を剏立した岩崎久彌氏の父の彌太郎氏，叔父の彌之助氏の 2 人は，その師匠の重野安繹氏を通じてですが，史学会，史料編纂所の剏設の事情をよく知っていたと思われます。すなわち重野氏は国史学科の初代の教授，史学会の初代会長で，史料編纂所長を兼ねていました。彌太郎氏，彌之助氏は重野氏の成達書院で学び，また昌平黌の儒者安積艮齋氏が湯島に開いて渉外学を教えていた見山楼では，重野氏と彌太郎氏は同門でした。さらに彌之助氏が重野氏のライフワーク〈大日本編年史〉を助けて，1892 年に靜嘉堂文庫を築いたことはよく知られています。ところで，白鳥庫吉氏は，リース氏が在日していたころに東京大学文科大学長だった言語学者の上田万年氏とともに 1904 年，「亜細亜学会」を起こしますが，長続きしません。1908年になって，桂太郎氏を会長とした「東洋協会」のなかに，平田東助氏を部長とする〈調査部〉が発足しまして，翌 1909 年に機関誌として「東洋協会調査部学術報告」第 1 冊が刊行されました。その編集主幹は上田万年氏と白鳥庫吉氏で，会員にはインド学，言語学，アジア史，建築学，国史学，法制史，社会学を幅広く包む 107 人が名を連ねました。1911 年にこの機関誌は「東洋学報」，1913 年に発行母体は東洋協会学術調査部と改まりました。明治37東洋学のおこりと東洋文庫（斯波）末から大正前半は研究分野別の専門分化がすすんだ時期でしたので，学会の会員も結局は東洋史，アジア言語学，アジア考古学の研究者が中心を占める形に落ち着きました。1924 年に東洋文庫が開設されますと，「東洋学報」は実質的に東洋文庫の機関誌となりました。リース氏が掲げた 3 点セットのうち，学科分野の画定と会員制の機関誌とはこうして出来上がったのですが，最大の困難は資料拠点を作ることでした。すでに申しましたように，東洋（アジア地域）を総合的に知るためには，漢学や漢籍，洋学，悉曇学の蓄えだけでは不十分でした。そこで数世紀も前から西欧で発展してきたシナ学，インド学の知識を吸収することが必要不可欠と考えられました。このニーズを一挙にして充たしたのが，岩崎久彌氏による「マックス ･ ミューラー文庫」および「G. E. モリソン文庫」の購入でした。1901 年，梵文（インド文学）学科が新設されたとき，高楠順次郎氏はオックスフォード大学時代の恩師マックス ･ ミューラー博士の旧蔵書 12,000 冊の購入方を岩崎久彌氏に懇請し，久彌氏は購入の上東京大学図書館に寄贈しました。一方，G. E. モリソン氏の「アジア文庫」24,000 冊はこの当時では随一の東アジアに関する欧文文献の一大蔵書として知られていました。モリソン博士は冒険旅行家，アジア通として名声をあげたのち，1897～1911 年の間ロンドン『タイムズ』紙の北京駐在特派員，また 1912～1917 年は中華民国大総統府の外交 ･ 財務顧問を勤めました。完全主義者であった彼は，職責の必要および自身の収書への情熱から，マルコ ･ ポーロなど初期の地理書 ･ 東洋案内書から 17, 18 世紀のジェスイット教団によるアジア関係の著述（いわゆるバロック・シナ学），19 世紀の近代欧米シナ学の著述や定期刊行物を徹底的に集め，19 世紀，20 世紀初頭のアジアに関する政治 ･ 経済 ･ 金融 ･社会 ･ 地理自然 ･ 宗教 ･ 美術にいたる欧文の調査資料，情報類を，領事報告から新聞雑誌の切り抜きにいたるまで，細大漏らさず集め，総計で 24,000 冊に達していましたが，パンフレット類の約 6,000 件，地図 ･ 銅版画の 1,000 件はこの数に含めていません。1917 年，モリソン氏は引退を機に蔵書の譲渡先を探していました。横浜正金銀行頭取の井上準之助氏はこのニュースを知り，三菱合資会社社長の岩崎久彌氏に購入を懇請したところ，久彌氏は快諾して英貨 35,000 ポンドでこれを購入し，同文庫は丸の内三菱二十六号館に設けられた「モリソン文庫仮事務所」に収まりました。久彌氏は岩崎宗家の蔵書を継いで「岩崎文庫」を築きますが，恐らく愛書家として文化財クラスの書籍の散逸や流出を憂えて，国宝 5 点，重文 7 点を含む貴重書を集め，文庫のコンセプトとしては，日本の書籍文化の歩みを標本的に配列する方向をとりました。米国留学から帰った 1891 年ごろから収書の枠はさらに世界的な視野に広がりまして，「マックス・ミューラー文庫」や　「G. E. モリソン文庫」を購入するという英断にいたったものと思われます。「モリソン文庫仮事務所」の時期（1917～24）に，久彌氏はモリソン博士との約束に従っ学習院大学国際研究教育機構研究年報　第 1 号38て，その公開に備えるべく，120 種を超える定期刊行物のバックナンバーを補っただけでなく，さらに財を投じて「G. E. モリソン文庫」そのものの増補も行って，総計で 54,000 冊に達しました。その資金で，白鳥庫吉氏，羽田亨氏，新村出氏は欧米に外遊したときに，東洋学で必要な本を買い足しあるいは複写し，書店からも集めました。その主なものとして日本関係の洋書，アジア関係の欧文の動植物図鑑，漢籍の『永楽大典』，『準回両部平定得勝図』，各種の『方略』，『五体清文鑑』，『西域同文志』，『華夷訳語』，中国の地方事情を記録した『地方志』，中国の伝記を補う『族譜』，各種の『叢書』などは，この時期から収集されたようです。これと並んで「仮事務所」では「岩崎文庫」のなかの珠玉『古文尚書』，『日本書紀』，『明恵上人歌集』を，国文学者，文献学者，国史学者の解説とともに覆刻して出版しています。また「岩崎文庫」に収まっていますが，『ジョン ･ セーリスの航海日記』（1614 年自筆本，重文）や，世界の稀本とされる天草本の『ドチリーナ ･ キリシタン』（1592 年，重文）ほか 2 本などは，この時期の増補事業の収集本だと思われます。久彌氏は東洋文庫の剏立に際して寄贈した，「G. E. モリソン文庫」，「同増補」に加えて，「岩崎文庫」計 38,000 冊を 1932 年に東洋文庫に寄贈しました。すでに述べましたように，これらを礎石に据えながら､ 行く行くは東洋学の資料拠点となってほしいという趣旨であったようです。増補の折りに専門家の手で「G. E. モリソン文庫」の目録の整理と増補本の選書が行われたことがきっかけとなって，東洋文庫には研究部が付設されることになりました。財団の定款に「東洋に関する図書を収集し､ 東洋学の研究およびその普及を図ることを目的とする」と規定してありまして，要するに東洋学の資料拠点，研究図書館，蔵書および成果の公開と普及が，この文庫の目指すところであると明記しております。こうして開設とともに研究部（白鳥庫吉部長），図書部（石田幹之助主任），やや遅れて総務部（深井三男主事）が発足しました。研究部は和文の機関誌「東洋学報」，欧文の機関誌Memoirs of the Research Department of The Toyo Bunko を毎年発行するほか，『東洋文庫論叢』というシリーズ物の研究叢書をほぼ毎年発行して今では第 72 冊目を数えます。蔵書の収書は経常の購入のほかでは，東洋学の研究者や愛書家の旧蔵書の寄贈が少なからぬ部分を占めておりまして，朝鮮の古籍，ベトナムの漢喃文献，満州 ･ 蒙古・チベットの大蔵経典，甲骨片，日本医学史の書，東アジアの考古学資料，インド語学 ･ 文学の文献，タイ語文献，ペルシャ語文献，トルコ語文献，シーボルト文書，東南アジア関係欧文書，フィリッピン関係スペイン語文書，ラフカディオ ･ ハーンとチェンバレンの往復書簡などの珍しいコレクションは，寄贈本に負っております。戦後に財閥解体令によって財政的に窮地に陥りましたが，国立国会図書館から図書整理 ･閲覧業務の支援がなされましたほか，ハーバード ･ エンチン財団などからの研究助成，文部39東洋学のおこりと東洋文庫（斯波）科学省からの研究費助成，三菱各社グループからの財政支援が次々と寄せられましたおかげで，混乱からの脱却を果たした上にいっそう充実させることができました。現在の蔵書数は約 100 万冊，言語別では洋書約 3 割，和書約 2 割，漢籍約 4 割，アジア諸言語書約 1 割，定期刊行物の件数は約 12,600 （欧文 2,400 余，和文 2,700 余，中文 5,000 余，韓文 840 余，アジア諸言語 1,400 余など）となっています。近年，建物の老朽化と書庫の手狭さが生じましたのに対処して，三菱グループ各社の支援の下で 7 階建ての新屋ができました。その中に新たにミュージアムと講演室が設けられまして，普及展示部を発足させて，公開と展示に力をいれることになりました。これまで閲覧室を通じての蔵書の公開や，公開講座を通じての普及，そして折々の展示によって普及に努めてきました。しかし，研究に付き従う専門化，細分化とともに，東洋文庫の活動全体を東洋学の人々，東洋学以外の一般市民の人々に，わかりやすいかたちで理解してもらう努力は，決して十分ではありませんでした。ミュージアムと講演室を併設した機会に，普及活動にも全力で取り組むことを東洋文庫の切なる念願としています。各方面からのご支援と忌憚のないご指摘をいただければ幸いと存じております。（しば　よしのぶ　　東洋文庫長）

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