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中国近代演劇の成立と日本―文明戯と新派を中心に
Authors
Linghong CHEN
チン リョウコウ
陳 凌虹
Publication date
23 March 2012
Publisher
Abstract
文明戯は19世紀末に芽生えた演劇様式で、当時は新劇とも呼ばれ、現在では早期話劇と称される場合もある。その存在は中国の古典演劇と現代演劇の間に位置し、現代演劇の誕生を促した演劇様式としても知られている。中国の現代演劇はイプセンらの西洋近代劇の受容により形成されたが、その発祥と発展の歴史を遡ると、日本とのつながりがきわめて目立っている。なかでも、現代話劇の誕生の礎を築いた留学生の文明戯劇団――東京で創立された春柳社の演劇は、上演形態、舞台美術などの面において同時代の演劇団体と比較して、より近代的な演劇理念を見せた点で高い評価を得ている。春柳社に限らず、19世紀末から話劇成立(1924年)までのおよそ二十余年間は政治、軍事、経済などの分野と同様に、演劇文化の日中交流も活況を呈していた。本研究はこのような近代日中演劇界の緊密な連携関係、とりわけ中国の近代演劇の成立に果たした日本の役割について、文明戯と新派の関係を中心に検討する。 第一章においては、近代演劇が展開された社会的・文化的コンテクストを概観する。伝統演劇の改良と新演劇の創造という二つの流れが政府の要請と文芸界・演劇界の動きという二つの推進力によって展開された様子、日本の例を援引しながら新しい演劇の様相を提示した清末の知識人たちが多数存在することを確認した。演劇改良の動向と新しい社会情勢、また担い手である書生や学生、享受者である近代市民層の出現が新演劇としての新派と文明戯の誕生を可能にした。日本演劇界の動向に触発され、東京にいる留学生が1906年に春柳社を組織し、近代日中演劇交流の幕を開けたのである。 第二章においては、新演劇の創始期から一つの劇種として成立するまでの動向を検討した。まず新派の草創期、すなわち壮士芝居の時代には、政府を諷刺する演説を組み込んでよく警官と衝突する民権芝居(「経国美談」「板垣君遭難実記」「佐賀暴動記」「平野次郎」)により演劇界に頭角を現し、さらに国威の発揚という大義名分を代弁する日清戦争劇(「壮絶快絶日清戦争」「川上音二郎戦地見聞日記」「威海衛陥落」)によって、歌舞伎座に進出するそのプロセスを辿った。そこに貫かれている血なまぐさい戦闘場面、涙を絞る愁嘆場は歌舞伎の手法を多く継承していると指摘できるが、劇評等を通して両者の径庭にも容易に気付かされる。日清戦争劇を分岐点に、歌舞伎は在来の豊かな様式性を再生する方向を見出し、新派は同時代の様相を映し出すことを他に譲れない己の責任のように取り組んでいくことになる。一方、清末の演劇改良の口火を切った梁啓超の「小説界革命」が日本の政治小説を手本にしながら、民衆教育のよい手段として「演説よりも演劇」という認識の形成に至った。第二節では、文明戯草創期の代表人物である王鐘声と任天知の演劇活動、その背後にある日露戦争劇(「日本軍万歳」、「征露の皇軍」等)について具体的に検証した。この論証に確実な証拠を提供してくれるのは、次の第三節の検討である。すなわち、1902年頃から京都に滞在し、日露戦争時の時代風潮と京都明治座の新演劇に触発されて演劇に従事するようになった任天知の経歴である。春柳社メンバー、王鐘声、任天知とその周辺に、日本留学や滞在の経験を持ち、その後も中国の新演劇の担い手として活躍した人が少なくない。 第三章においては、新演劇の興隆期、メロドラマの時代についてその諸事象とそれぞれの背景を考察した。日清戦争後、そして辛亥革命後、人々の関心は政治から遠ざかり、娯楽的要素が強いホームメロドラマが文芸界の寵児となる。新派の戦争物は結局「際物」に過ぎず、そのブームが冷めた後、新局面を開くため、上演の題材探しに迫られていた。この時はちょうど家庭小説のブームが芽生え始めた時代でもあった。この種の小説は現代口語を用いて現代の風潮と主張を反映するものであり、「現代劇」としての新派にとってはうってつけの材料となった。文明戯のオリジナル脚本がきわめて少なかった当時の情況の下で、新派は文明戯に新しい演劇の見本を多く提供した。文明戯における新派戯曲の受容に関して、すでに多くの研究が行われてきたが、第二節と第三節では、春柳社最初の演目「椿姫」、代表演目「不如帰」と「家庭恩怨記」を取り上げ、新発見の資料に基づいて、日中における同じ作品の受容の異同と相互交流を検証した。 第四章においては、新演劇の芸術様式としての特徴を比較演劇学の視点から解き明かした。人材の養成と演目の提供のみならず、演技、新式劇場などの面でも当時の日本演劇界は文明戯のよい手本であった。まず、女形の存廃と女優の登場を含め、新演劇における女形の存在に注目し、なかでも、文明戯の女形が新派に私淑する様子等を確認した。第二節では近代新式劇場の登場とともに、新派と文明戯の劇場のあり方について検討した。新演劇は在来の劇場に進出することによって地位を得、そして改良上演を通して、茶屋制度の廃除、観劇時間の短縮など、新しい舞台機構と興行方法を試みていた。また、俳優の団結と新演劇界の統合を目的に、新派と文明戯にはそれぞれ統合機関が設けられたが、存続期間が短い上、資料の制限もあって、これまでの研究では具体的な組織像がなかなか確認できなかったが、第三節では、1907年12月に成立した「東京新派俳優組合」と1912年7月14日に組織された「新劇倶進会」についてその組織的な特徴を具体的に検証した。とりわけ筆者が新たに発見した『太平洋報』に掲載された「新劇倶進会消息」は、新劇倶進会の活動を記録しており、当時の新聞雑誌に依拠するしかない新劇研究にとって、きわめて重要な資料だと認められる。 第五章においては、中国の新演劇は新派のみならず新劇運動からも近代劇を学び、また世界的に広がっていた自由劇場運動、民衆芸術運動の理念も受容していた事実を検討した。例えば春柳社の李叔同と陸鏡若が坪内逍遥の文芸協会に様々な形で関与しており、また徐半梅が20年代に民衆戯劇社の機関誌『戯劇』にイギリスの独立劇場、舞台協会、ドイツの自由劇場、日本の自由劇場などを紹介する文章を多数寄稿しているが、その多くは『歌舞伎』や『演芸画報』に寄せた小山内薫の自由劇場論の翻訳であった。 以上のように、本論文は幾つかの角度から文明戯の形成と発展に与えた新派及び日本演劇界の影響について、具体的な事象を通して総合的に検証した。一連の作業を経て、新派と文明戯は伝統と近代の諸要素を一体化させ、多様な可能性をもつ演劇様式であり、在来の演劇伝統を受け継ぎながら、外国文化の自民族化を果敢に試みた「新しい民族性の創造」の実験でもあったと結論付けた。その成立と発展は伝統演劇改良の大きな推進力となったのみならず、その後の本格的な近代劇の誕生をも触発したと言える。 最後に、本論文は文明戯研究として、なお以下の創見において特にその意義を強調したい。第一は、文明戯の創立者の一人である任天知の日本経歴を始めて明らかにすることにより、中国演劇史における一つの謎を解明したこと、第二は、1912年7月に創設された文明戯最初の統合機関新劇倶進会についてはじめて論述し、『太平洋報』(1912年7月1日~9月20日)に連載された関連史料(付録2)を発掘、紹介することにより、文明戯研究における一つの重要な空白を埋めたこと、の二点である
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Last time updated on 10/02/2018