Chemical Industry and Environmental Movement in Germany during the 1870s : the apex of citizen-protection

Abstract

ドイツ化学工業が19世紀後半から合成染料を足場に急成長をとげ、20世紀初頭に世界市場を席巻したことは、周知の通りである(Andersen,1996:加来,1986)。その間、製品開発を通じた高い内部蓄積、国際的な販売戦略の展開、職員・労働者の階層的組織の形成、科学技術的な研究成果の生産への応用などを梃子にして、先端産業の一つとして寡占的大企業の成立をみている(Pohl,1983)。そのような飛躍的発展の一大画期は、1880年代以降の「生産の科学化」(Andersen,1990,p.163) の時期のことだった。しかし、以上のような短期間での化学工業の急成長は、自由な市場条件のもとで進展したわけではない。1845年プロイセン政府は、火災・煤煙・悪臭・騒音など住民に大きな不利益・危険・迷惑を与える恐れのある業種に対して、事前営業認可の取得を義務づけたが、「あらゆる種類の化学工場」は、初めからその対象に挙げられていた(Gs,1845,p.46)。この営業認可制度が化学工業にとって「目の上のコブ」的存在だったことは、1878年創立の「ドイツ化学産業利益擁護連盟」(以下、化学連盟と略す)の機関誌を一瞥するとき直ちに明らかとなる。1881年化学連盟会長のヴェンツェルが総会で行った演説を挙げておこう。「新規の発明の場合、その成功は工場主による(新製品の)可及的速やかな市場供給に依存しているので、ドイツ産業にとって最適な経済局面は失われてしまう。なぜなら、ドイツ流の認可手続きに無縁なイギリス人が、競争相手として常に大きく先行することになるからである」(CI,4,p.330)と、国際競争力の低下を招きかねない元凶とさえ見なされている。その後、化学連盟は「営業条例」・「執行規則」の改正を重要な行動目標の一つに掲げ、帝国宰相・参議院宛てに繰り返し嘆願を行った(Henneking,1994,pp.122-125:Vossen,1907)。ただ、その目標到達までの道のりは平坦ではなかった。特に、認可審査手続きが時間を要しただけでなく、企業家の認可申請を契機として「環境闘争」が頻発し、その前に大きく立ちふさがったからである。その意味から、住民からの抵抗排除は、後発国ドイツの急速な工業化過程を「社会全体の産業化」の観点から考察した技術史家、G.バイエールの表現を借りて言えば、確実に「大工業への序曲」の一齣をなしていたのである(Bayerl,1994:田北,2003,pp.47‒48)。ところで、筆者は、デュッセルドルフ行政管区にある化学企業の認可申請を契機に発生した「環境闘争」の時代的変化を追究することで、認可制度における「大工業への序曲」の諸相の析出を試みてきた。その際、闘争の成否というより、認可制度の性格規定をめぐる相対立する所説――「住民保護」(Mieck,1967,p.69)か「産業保護」(Brüggemeier,1996,pp.130‒132:Henneking,1994,p.79)か――を念頭に置きながら、特に利害当事者である諸主体(企業家、中央政府・自治体、住民、専門家)の織りなす関係の変化を、1845-1909年の法制度や経済的・政治的影響力の変化と関連づけながら考察してきた。この「ゲーム・ルール」は、帝国・自治体レベルの法から、実際の認可審査のあり方(審査担当者と審査手続き)、そして審査結果を左右する要因として「住民の証言」(現地状況と自治体の影響力)と科学技術的鑑定の重みまで含んでいる(田北,2010)。なお、これまで研究対象に据えたのは、都市バルメンに本拠を置いていた化学企業である。なかでも、1875年まではバルメンに、そしてそれ以降は順次デュッセルドルフに経営の重心を移したイエガー染料会社を考察の基軸とした(Carl,1926:田北,2008,2009,2010a,2011a)。ただ、このイエガー染料会社に関しては、主要な対象に選択した研究史的理由、企業のプロフィル、および主要な工場の配置の3点につき別の機会に詳しく論じたことがあるので、そちらを参照願いたい(田北,2010a,pp.75‒76)。この場では、「40年間に13度の認可申請を行い、その全てで抵抗を受けた唯一の企業」(Henneking,1994,p.393)と呼ばれたように、1860年前半から20世紀初頭まで認可闘争に関わる史料が多数伝来して、環境闘争の変化を追及する上で絶好の条件を備えていることを再確認しておきたい。また、1845年「営業条例」導入直後に発生した認可闘争の特質をみるために、ヴェーゼンフェルト化学工場を取り上げた(田北,2011b)。さらに、イエガー会社をめぐる闘争にあって比較的史料伝来の手薄な1880年代をカバーする意味から、ヘルベルツ会社とダール会社を取り上げた(田北,2011c)。認可制度を捉えた大きな地殻変動の具体相をより的確に把握できると、考えたからである。最後に、本論の論述手順について一言しておきたい。Iでは、1872-75年イエガー闘争の経緯を伝来史料とともに概観する。その際、「鑑定書・診断書と証人尋問記録」を主たる史料基盤に据えた別稿との関係を明らかにしつつ論じていく。IIでは、認可闘争に関係する諸主体の作成した文書を中心に検討して、それぞれの主張とその拠り所となった法制的・社会経済的なゲーム・ルールを浮き彫りにしつつ、闘争の進行を辿る。結びでは、1880年代と20世紀初頭の闘争と比較しながら検討結果の総括をはかる

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