Watanabe, Mami

ワタナベ, マミ

渡部, 麻実

Japanese

1974

Japan Women's University Institutional Repositry / 日本女子大学学術情報リポジトリ

[17]  文学資料・文化遺産としての近代作家旧蔵書コレクション  渡 部 麻 実  １   書き込みという肉筆を伴うものでありながら、旧蔵書は、原稿・創作ノートのような文学資料・文化遺産としての位置を確立できておらず、その整理・保護・研究は他の肉筆資料や古典籍に比べ著しく遅れている。どこに、何が、どのようにあるのか、旧蔵書群の諸相を明らかにする必要がある。  縁ある土地の文学館に対する遺族の寄贈により形成されることが多い個人作家の旧蔵書コレクションは、日本各地の文学館に多数所蔵されている。旧蔵書を対象とする調査・研究は従来、専ら作家単位で行われ、旧蔵書群を総合的に把握したり、横断的に分析したりする動きは見られず、日本にはそのような研究を可能とする基盤が整っていない。加えて、同じ作家の旧蔵書でも、複数館に分かれて所蔵されている例も多い。  旧蔵書は、時に海を越えて寄贈される。ゆえに特定の作家に関する専門的な研究の蓄積においても、把握の外に置かれ続ける資料群は少なくない。個別の文学館・図書館が、膨大な蔵書をカタログ化する作業に避ける力は限られており、蔵書目録やそれに類する記録資料が存在する場合も、完成途上であることが多い。さらにその一部は、しばしば非公開状態に置かれている。作家旧蔵書には、開かれないまま遺されたアンカット本をはじめ、読まれた痕跡のない本、[18]  所蔵者であるはずの作家の没後に出版された本、あるいは作家本人ではなくその家族の蔵書等が、作家の愛蔵書・手沢本と不分明に混在しているのもつねで、旧蔵書群の多くはきわめてカオティックな状態にある。  ２   たとえば、稿者の主たる研究対象である堀辰雄の旧蔵書には、Ernest Dowson, Dilemmas, London, Mathews, 1912、Anatole France, My friend’s book, London, John Lane, 1913、Paul Claudel, The tidings brought to Mary, London, Chatto & Windus, 1916、Anatole France, Little Pierre, London, John Lane, 1920（以上すべて神奈川近代文学館蔵）等、芥川龍之介が所有していたとみられる書も含まれている。堀の旧蔵書にその師である芥川の蔵書が、中村真一郎の旧蔵書にその師である堀の蔵書が混在するように、書物は交流ある作家たちの書棚をしばしば移動する。  また、異なる作家が、完全に同一の書籍を所有している場合も少なくない。たとえば、堀と、その最晩年に彼に師事した遠藤周作の蔵書に共通して見出せる François Mauriac "Thérèse Desqueyroux (Le livre moderne illustré 65)", Ferenczi, 1935.（神奈川近代文学館ならびに町田市民文学館蔵）は、出版年、ページ番号、挿絵その他から判断し、完全に同一の書と見てよい。  こうしたケースでは、芥川と堀、堀と中村、また堀と遠藤の間で、ある書物に関する情報や知識が、その挿絵さえ含め、共有されていたことになる。作家たちの交流に並行して生起する書籍の交流は、彼らの間に知や思考の共有をも[19]  たらす。彼ら固有の知的ネットワークの背景や土台に、この共通知があることは論を俟たない。  作家横断的に旧蔵書を眺める広い視野を獲得することにより、作家たちの肉声ではなく、〈読書の痕跡を伴って存在するテクスト〉による文学者ネットワークや作家像の更新を目指すことができると、稿者は考えている。作家の旧蔵書は、文学テクストに対し新たな解釈可能性を付け加えるのみにとどまらない。個別作家の旧蔵書調査を推進し、それによって新たに見出されるものを問うとともに、それらの成果を総合したときに新しく見えてくるものを問うてみたい。  作家たちの書庫をつなぎ一望できる新しいデータベースが構築されれば、文学研究は新たな視界を手に入れることができる。そしてこの試みは、個別作家の旧蔵書研究の進展によって拡充し、その仕事をなす研究者が各自の成果を、作家を越えて接続させることで有意に拡張する。この拡充と拡張のための呼び込み線を設置し、複数の研究的営為を引き込み得るプラットフォームを形成することができれば、文学研究や文化遺産をめぐる新たな展望が、確実に開けるはずだ。  かかる観点からは、以上に述べたように、以下の視座や可能性が開かれる。 （１）旧蔵書に対する位置づけの更新  旧蔵書を、ある作品、あるいはある作家の人物像を解釈するための補助資料としてではなく、研究の目的物に据える。テクストが読まれることで意味を生成するなら、読者による読書の痕跡を含むあらゆるエクリチュールの総体をテ、クスト、、、と捉えることもできるだろう。そこからは、書き込みごと、、、、、、テクストを読むという、テクスト分析の新たな方法が開かれる。 [20]  （２）集合体としての旧蔵書群の分析   読まれたものとしてのテクストの分析は、書籍単位だけでなく、作家の書架や書庫の単位でも可能だ。これにより近代作家の〈読書場〉という空間が、文学研究の分析と考察の対象に加わる。  さらに、一人の作家の書庫を別の作家の書庫と比較すること、つまり作家横断的な研究を行うこともできる。また、「どのように読まれたか」という問からは、「どのように読まれなかったか／読み間違えられたか」という新たな問を展開することも可能だ。〈集合体としての旧蔵書群〉、あるいは〈読む作家（たち）〉といった問題意識は、文学研究の場に、テクスト分析の新たな手法、作家像への新規のアプローチ、文学史的な記述の再構築を導入する推進剤になり得る。 （３) 新しいデータベースの開発   複数作家の旧蔵書間比較が可能な総合データベースは類例を見ない。実現すれば文学研究は、新しい見晴らし台、それ自体が分析の対象にもなり得る革新的な研究資料を手にすることになるだろう。  ３   さきに、堀旧蔵書には芥川の蔵書が含まれると述べた。つまり、堀が読んだのは、例えば芥川の書き込みがほどこされた Anatole France "Little Pierre"ということになる。また、長崎市遠藤周作文学館所蔵の、遠藤旧蔵書に含まれる堀の小説『菜穂子』１の巻末には、以下の書き込みが認められる（【図版】）。  「昭和二十一年、第六回」目に「モリヤック、ハイデッガーの関連」で読ま[21]  れた『菜穂子』は、「昭和十八年第二回」あるいは「十九年第四回」の読書において、『風立ちぬ』やリルケとの関係で読まれた際の夥しい書き込みを伴う『菜穂子』である。読書行為に、つねに書き込みが伴うわけではないが、ひとたび書き込みが行われると、その書は以後の読書において書き込みとともに読まれることになる。                     【図版】長崎市遠藤周作文学館所蔵 [22]   加えて注目したいのは、遠藤が評論「堀辰雄覚書」２で提示した『菜穂子』の読み方と、旧蔵書の書き込みから再構成されるそれとが、少なからず異なる点だ３。シャルチエとの対話でブルデューは、人々に対し何を読んでいるかと問うことは、〈正当化作用〉（l'effet de légitimité）により「申告するにふさわしいものとして何を読んでいるか」に置換されるため、意味を成しにくいと述べた４。同様のことは〈どのように読んだか〉を問う際にも言える。だが、〈正当化作用〉によって隠される〈読書〉を眺められる場は、存在する。それこそが、書き込みを伴った書物である。   テクストは読まれることで意味を生成する。イーザーは、テクストを「作者の外界アプローチから読者の経験に至る全過程」と捉え、読書を、テクストのみならず、読者自身の読む行為や過程において生起するものによって導かれる活動と説明した。そしてテクストの受容史における歴史的拘束性を問題にする狭義の〈受容美学〉（Rezeptionsästhetik）に対し、テクストとコンテクストならびにテクストと読者の〈相互作用〉（Interaktion）を問題にする〈作用美学〉（Wirkungsästhetik）を説き、読書を受容と作用の二側面で説明している５。解釈の結果ではなく、読書を通じてテクストがどのように展開していくかを問う、そうした視点の延長線上に、テクストを〈読書の痕跡を伴って存在する総体〉と捉えること、そして旧蔵書や古書を、テクストと書物と読者が集中する極と位置づけることもできるのではないか。  〈Seuils敷 居〉をまたぎ、足を踏み入れた読書場に見出せるテクストとペリテクストの総体を、単一のオブジェと捉えることで、文学を新しく問い直すことができるはずだ。 [23]  ４   最後に、近年注目されているデジタルヒューマニティーズの可能性についても、簡単に触れておきたい。例えば、堀辰雄と遠藤周作の読書場に共通して存在し、かつ多量の書き込みが認められる書物に、François Mauriac "Le Nœud de vipèrs"（『蝮のからみあい』）がある６。堀と遠藤を〈読者〉として捉える視点からは、彼らの読み方の類似と差異を分析し、『蝮のからみあい』の再解釈を果たすことができる。また、『蝮のからみあい』を読む堀、あるいは遠藤の分析、さらに両者の比較により、作家の肉声に頼ることなく、書き込みを伴って存在するテクストから、読者としての作家像を取り出すことも可能だろう。  この方法をさらに拡張し、対象を他の作家たちの旧蔵書にも広げること、換言すれば、複数の読書場を横断しつつ、『蝮のからみあい』を総合的に分析することもできる。こうした実験の先には、書物の賃借や読書場の類似性から、近代作家のネットワークを新たに闡明し、文学史を再整理する道を拓くことも可能だ。  ただし、大量の書き込みがほどこされた複数の『蝮のからみあい』を横断的に分析することには、一つの困難が伴う。それは、分析対象の拡大、対象テクストのサイズアップに付随する課題である。表現形式が一様でなく、意味がコンテクストに強く左右される〈文学〉の大規模テキストデータを対象とした精密な分析が、いかに困難かは容易に想像できるだろう。  しかし現在、Susan Schreibman, Ray Siemens, A New Companion to Digital Humanities, John Wiley & Sons, 2016.をはじめとする試みが、こうし[24]  た課題を克服し得る可能性を具体的に示し始めている７。  ５    作家の旧蔵書は、これまでのところ、文学研究の主対象、あるいは文学館のコレクションの目玉にはなっていない。しかし、従来スポットライトの外に置かれてきた旧蔵書群は、宝の山に化ける可能性にあふれている。死蔵に近い状況に置かれることも少なくないその原石を掘り出し、整理と保管に努めること、旧蔵書群を整備し、活用の基盤を整えることは、文学研究の賦活化ならびに地域の活性化にも資するだろう。  書物は、テクストと読書が切り結ばれる極点だ。だが書物は、経年劣化を免れ得ない。原稿・草稿に比し、デジタル化等による保存の動きが鈍い旧蔵書は、少なからず喪失の危機に瀕している。稿を終えるにあたり、これらの遺産を積極的に活かし、後世に受け継ぐこと、作家たちの書庫を接続し、文学研究に新たな視座と方法をもたらすことの必要性と可能性を、今一度強調したい。本稿が、文化遺産としての資料を守り、かつ活かすことをめぐる、課題の共有と解決の礎、あるいはそうした問題への関心を惹起する契機となることを願う。   注 1. 遠藤の蔵書中の『菜穂子』は、創元社から 1941年 11月に刊行された初刊本である。  [25]   2.「高原」1948年、3,7,10月号初出。 3. 渡部麻実「読書場の『菜穂子』―遠藤周作の書棚から―」（「国語と国文学」97-5、2020年 5月）参照。 4. ロジェ・シャルチエ『書物から読者へ』みすず書房、1992年。 5. イーザー『行為としての読書』岩波書店、1982年。 6. 渡部麻実「読書場を読む―資料採掘・データ化・文学館―特集 デジタルヒューマニティーズと文学研究のこれから」日本近代文学会春季大会、2021年6月。 7. 日本文学を対象とする初期の試みを代表するものに、Hoyt Long, The Values in Numbers: Reading Japanese Literature in a Global Information Age, Columbia University Press, 2021.がある。  付記 遠藤周作旧蔵書への書き入れは、遠藤龍之介氏の許可を得て引用した。本研究は JSPS 科研費 JP22H00641 の助成を受けたものである。 

文学資料・文化遺産としての近代作家旧蔵書コレクション

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