The Economic History Aspect of the Shibusawa Fisheries History Institute in Kajinishi Mitsuhayaʼs Salt Industry Research

Abstract

本稿は、アチック同人の一人であった楫西光速(1906(明治39)年~1964(昭和39)年)の塩業研究から、水産史研究室における経済史学的一面について考察するものである。1938(昭和13)年4月、研究の道を志して故郷の大阪を出てきた楫西は、学生時代の恩師である土屋喬雄の紹介により渋沢敬三と出会い、アチック・ミューゼアム(以下、アチック)に加入した。この時、楫西は塩業研究を担当することとなった。 楫西がアチックに加入した年は、日中戦争の真っただ中であり、物資の統制が進められていた時期であった。このような状況下で、楫西は史料整理を行いながら、日本塩業史についての研究を始める。1938年9月、楫西はアチックマンスリーで「近世塩業史の諸問題」を発表し、日本塩業の諸問題として、起源、開発・維持、塩業政策、製塩技術、燃料、休浜、経営形態といった七つの問題を提示した。それらは、日本資本主義の成立を考える上で重要な、経済史学的な問題を含むものであった。以後、楫西は自らが掲げた課題を明らかにするために、渋沢や土屋の指導のもと、塩業研究に取り組んでいった。 1941年12月になると、日本の対外戦争はアジア・太平洋戦争へと発展した。日中戦争以来、日本国内では塩の不足が深刻化していた。そして、塩の統制が強められ、増産が至急の課題となるにつれ、その影響は楫西の研究にも現れ始めた。それは、アチックに向けられた社会的期待に応えてのことでもあったが、そのような状況でも楫西は、経済史学的な観点から塩業研究に、取り組み続けた。 第二次世界大戦の終結後も、楫西は塩業の研究を続けた。1961(昭和36)年には、日本塩業研究会の顧問に宮本常一とともに就任し、後進の指導に当たったが、1964年3月に同研究会の席上で心筋梗塞を起こし、死去した。楫西の死の翌年に刊行された彼の著作集『日本産業資本成立史論』で述べられているように、楫西の研究人生は「塩」に始まり、「塩」で終わったのである。第Ⅲ章 水産史研究室同人の「問題意識の多様性

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