石川  晶子

石川 , 晶子

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Tama Art University Repository / 多摩美術大学　機関リポジトリ

木を見て森をみる　石川晶子　53《2019 年 10 月 20 日　石川鐵工所にて》2020 年，刺繡・昇華転写プリント，H 727×W 1167×D 30 mm／H 727×W 606×D 27 mm／H 1455×W 970×D 30 mm 石川晶子木を見て森をみる54　多摩美術大学研究紀要　第 35 号　2020 年機で指を潰したこと．二つめは 2019 年 10 月の台風 19 号（令和元年東日本台風）による災害被害である．　私が最後に工場を訪れたのは小学生の時だろうか．覚えているのは工場の空き地でした焼き芋と，近くにある田んぼで時間を潰した記憶だ．私は父が工場で働く姿を見たことがなく，石川鐵工所は私の日常にぼんやりと存在していた．台風 19 号が東京を通過した翌日，父は早朝から工場に向かい，台風被害の後始末に追われていた．疲弊しきった父とは対照的に，私はその状況を俯瞰しながら普段通りの生活を送っていたように思う．当時の私にとって，工場の台風被害はショックな出来事でありながらも，どこか他人事のようにも感じられたのだ．そして父から廃業を告げられた時，私は初めて動揺したことを覚えている．その時に感じたのは，喪失感とそれまで隠れていた焦燥感である．この体験こそが本作品の制作動機といえるだろう．　台風 19 号が過ぎ去った一週間後の 2019 年 10 月 20 日，私は父と石川鐵工所を訪れた．当初は久しぶりの工場に心を踊らせていたが，実際の工場を目の前にすると廃業の事実が一気に現実味を帯びた．水浸しになった入口を見上げると，屋根の所々に穴が空いていた．機械にはすでに雨よけのブルーシートが被せられ，父が故障の心配をしていたことを思い出す．この時点で 10 年前の記憶と異なることは明らかだったが，私はしばらく工場を散策しながら自身の記憶を辿った．父は早速床の水掃はじめに　2020 年 2 月 18 日 か ら 29 日 に か け て，横 浜 の FEI ART MUSEUM YOKOHAMA にて「多摩美術大学助手展―inter-mixed―」が開催された．私は統合デザイン学科の副手としてこの展示に参加し，新作となる《2019 年 10 月 20 日　石川鐵工所にて》を発表した．この文章では，本作品における制作背景と表現方法を振り返り，背景にある思考を整理することで，自身の研究テーマを解明していきたい．1．制作背景　この章では本作品の制作背景を整理し，研究テーマを探る．第 1 節は石川鐵工所と自身との関係性について考察する．第 2節では自身の 2 つの特性を述べて，制作における原動力を紐解いていきたい．第 3 節はこの章のまとめとして研究テーマに言及する．1-1．石川鐵工所　作品タイトルとなった石川鐵工所は，私の曽祖父が創立したプレス機を扱う会社である．今年で創立 116 年になるが，工場の老朽化や後継者の問題により，昨年廃業することを父から告げられた．廃業の気配は数年前から感じていたが，それが決定的となった二つの出来事がある．一つめは父が仕事中にプレス図❶　石川鐵工所にて撮影，2019 年木を見て森をみる　石川晶子　55題解決能力や耐久力が向上していることが分かる．そのとき，私はレベルが上がったような小さな達成感を味わう．しかし私が日記を続ける理由はそれだけではない．過去の自分の状況と重ね合わせることで，現在の自分が陥っている状況を把握できたり，新たな解決法を見出すことがある．ときにはこれから起こり得る出来事を予知できるような感覚を抱く．日記を続けることは自身の変化や成長を可視化するだけではなく，記録が蓄積することで日常生活の大きな流れや変化の全貌が明らかになり，新たな知見を得ることができるのだ．　以上の二つの性質を踏まえて，本作品の制作動機となった「焦燥感」の正体について改めて考え直したい．するとその正体は，将来の選択肢が失われることへの対抗心だと推測できる．台風 19 号での経験を通じて私は，工場を存続させたいという思いが自身の中に存在していたことを実感したのだった．私が工場の廃業を受け入れたことは，将来の可能性の一つが消失した実感にも置き換えられるだろう．しかし私の中には，その選択を保留しておきたかった未練の気持ちも残っていて，それが本作品の制作へのモチベーションになっているように思う．私は選ぶことのなかった選択肢の可能性や欠けてしまった記憶に執着がある．日記や制作を通じて，それらの全貌を摑もうとしているのかもしれない．私の制作における原動力は，この「見えない世界」への執着と，探究心だといえる．きを始めており，石川鐵工所は廃墟のような重々しい雰囲気を纏いながらも微かに人の気配を感じ，生と死の絶妙な均衡を保っているように見えた．この時，私はそれまで理解できなかった父の決意を理解できたように思う．私はやっと工場の廃業を受け入れる心構えができ，石川鐵工所の現状を写真に収め始めた．（図❶❷）1-2．保留する・日記を書く　私は多くの選択肢が現れたときに惑わされやすい．選択肢の先にある無数の可能性を考えると，それらを切り捨てることができないのだ．この状態に陥ったとき，私は保留を選ぶ．それは自意識の外で穏便に選択肢が失われていくことに身を委ねているともいえるだろう．保留は思考停止のように感じられるが，私は能動的に捉えている．着々と選択肢が絞られていく状態の中でしか得られない情報があるからだ．着地できない居心地の悪さやもどかしさに身を置き続けることで，少しずつ視界が開けるときもあれば，突然この停滞状態を覆す情報に辿り着いたりもする．　この流れで，記録することへの執心についても述べていきたい．私は 3 年前から日記を毎日書き続けている．その理由として分かりやすいのは，自身の変化を実感できるからだろう．日記を読み返すと，過去の悩みが小さく感じられたり，自身の問図❷　石川鐵工所にて撮影，2019 年56　多摩美術大学研究紀要　第 35 号　2020 年2．表現方法　第 2 章では私がこれまで続けてきた刺繡と昇華転写プリントを併用した作品制作を振り返り，研究テーマへの理解を深めていく．第 1 節では自身の作品とグラフティとの繫がりを例に用いて「見えないものの可視化」について論ずる．第 2 節では見えないものの全体像を捉えるために，私がアーカイブを重要視する理由を述べる．第 3 節では本文の執筆の中で感じた研究テーマとのつながりを述べ，作品制作の外から研究テーマを考えてみたい．2-1．見えないものを可視化する　私の作品は①記録，②刺繡，③昇華転写プリントという 3 つの工程を踏んで制作されている．本作品を例に述べると，①台風によって被害を受けた石川鐵工所を撮影する，②ポリエステルの布に刺繡を施す，③昇華転写プリントを使用して①の写真を②の布にプリントする，という流れだ．（図❸❹❺）上記の工程を踏むことで，画面上に複雑なレイヤー構造が生まれ，布のテクスチャー，刺繡，写真などの情報が渾然一体になる．それにより各メディアの限界を超えた表現が可能になると私は考える．そこに私はグラフィティとの繫がりを見出した．　グラフィティは高架下や鉄道などパブリックな壁面に描かれ1-3．見える／見えない　物事が確かなものになるには時間を要する．工場を訪れた時，私は視界から入る情報や父の言動から工場全体が纏う雰囲気を感じ取り，徐々に石川鐵工所の存在が明確になっていく感覚を覚えた．工場にまつわる断片的な記憶を思い出し，それらが集積することで私は当事者の自覚を持つことができたように思う．記憶は時間の経過とともに変化し，常に不完全な状態である．過去の日記を読み返しても，当時の心情を忠実に思い起こすことはできないし，そこに書いてある出来事さえ思い出すのに時間がかかることがある．しかし日記を続けていると，私は同じ体験を長いスパンで繰り返している気がしてくる．記憶の一部が欠けていても，それらが蓄積することで日常の全体像を把握できるようになるからだろう．だとすると，記憶の集積の「欠落部分」に注目して，少しでもそのピースを集めることができれば，欠けてしまった記憶の全体像を捉えられるのではないか．　私は「見えているもの」を見つめ直すことで，欠けた記憶や選ぶことのなかった選択肢などの「見えない世界」を捉えたい．それは自身が認識できる範囲から，より大きな世界を想像することであり，言うなれば木を見て森をみる体験である．私はこれを自身の研究テーマに設定しようと思う．図❸　制作過程　①記録 図❹　制作過程　②刺繡木を見て森をみる　石川晶子　57図❺　制作過程　③昇華転写プリント58　多摩美術大学研究紀要　第 35 号　2020 年2-2．方法論としてのアーカイブ　第 1 章の 3 節の内容を言い換えれば，私は自分が見ている範囲は世界の断片にすぎないことを認めて，欠けた部分を集めることで物事の全体を捉えようとしている．そのためには集めたピースをアーカイブすることが重要だと私は考える．　アーカイブの本来の意味は，重要記録を保管することである．例えば図書館にアーカイブされた書物は，管理しやすいようにカテゴリ別に整理して並べられている．それにより利用者は知りたいテーマをもとに特定の本を探し出すことができる．私はスランプや無気力状態に陥ったとき，目的を持たずに図書館に向かう．そしてつい足を止めてしまうカテゴリの情報から，自身の中にある隠れた興味や関心に気づくことがある．アーカイブにはマッピング，整理，秩序，などの要素が含まれ，アーカイブされた物事から新たな知見を得たり，欠けたピースを見つけ出すことがある．　刺繡はステッチの一粒一粒が集まることで，線になり，面となる．そしてステッチの種類や密度，粒の並ぶ方向によって，その見え方は大きく変化する．私は制作において，刺繡をする時間の中から見えないものの気配を探る．最初のうちはゆっくりと刺繡を刺していくが，ステッチが集まるにつれて自然と秩序が生まれていることに気づく．それからはその流れに沿って感覚的に作業をしているように思う．刺繡の作業は写真からは読み取ることのできない記憶や体験をなぞる行為だ．例えるなら，写真は本棚のような存在で，そこに本を差し込んでいく感覚に近いのかもしれない．あらゆる要素が秩序を持って配置されることで，それらのつながりや輪郭が明瞭になってくる．それにより鑑賞者が「見えないもの」の気配を感じられる情報量にまで到達できるのではないか．た文字や絵のことで，今回はその特徴の一つである「上書き」に注目したい．グラフィティは都市をメディアとして，壁面のテクスチャーの上にカラースプレーやフェルトペンなどで描かれた図形が重なり合い，一見すると画面全体が混沌としている．しかし上書きは単なる自己アピールとして行われるわけではなく，他者への敬意を払うことで秩序が保たれているのだ．特定の場所に配置される図形の重なりは，メディア間の境界線を曖昧にして，全体としての存在感を増幅するだけではない．秩序という「見えないもの」の存在も際立たせる．つまりグラフィティは混沌と秩序によって見えないものの存在をアピールし，壁面全体が現実世界をより強く表現しているといえるだろう．　私の制作とグラフィティとの違いは作業のスピード感である．グラフィティには即興性があり，視覚的なスピード感も魅力の一つである．一方で私の制作は時間を要する．特に刺繡に割く時間は大きく，この工程は最も重要だといえる．刺繡をしているとき，私は写真からの情報だけでは捉えることのできない，モチーフが纏う気配や記憶などを探っている．ゆっくりと思考する中でしか見つけることのできない存在は，一本一本の糸が重なり合うことで生まれる微かな立体感に置き換えられる．その上に昇華転写プリントを施すと，糸と糸，糸と布とが重なる部分に「黒い影」が落ち，プリントの際に防染された「白い影」が現れる．（図❻）そうして画面上の刺繡がより際立つだけでなく，2 次元と 3 次元の境界線が入り混じることで，画面全体で見えないものの存在をアピールすることが可能になるのだ．図❻　《2019 年 10 月 20 日　石川鐵工所にて》部分木を見て森をみる　石川晶子　59おわりに　私は 6 年前から刺繡と昇華転写プリントを併用した作品制作を続けている．本作品の新たな試みは，手刺繡と機械刺繡を併用したことだ．機械刺繡では糸のツレや布の縮みが顕著で，自分では制御しきれないところが多い．最初は扱いに苦戦したが，途中からはその偶然性も作品の一部として取り入れるようになった．意図と偶然性のあいだを表現できる機械刺繡は，「見えないもの」との相性がよいのかもしれない．そんな気づきを得て，今年の 9 月に新作を発表した．新作は機械刺繡のみを使用し，写真の代わりにイラストレーションをプリントしたが，これは自身にとっての新たな壁になりそうである．2-3．執筆における研究テーマ　この文章を執筆するにあたり，これまでに刊行された制作・研究ノートを拝読した．私は多くの文章中に見えないものへの表現意欲が語られている印象を受け，自身の研究テーマの普遍性に気がついた．それと同時に，この文章を通じて私が見えないものをどのように捉え，表現しているのかを明確にする必要があると感じた．　私はこの執筆においても木を見て森をみる体験をしているように思う．本作品の制作過程を振り返り，記憶や感情，モチベーションなどの抽象的な存在を探り，それらを言語化すること，そして整理して文章化することで，はじめて自身の研究テーマの輪郭が見えてくる．私は石川鐵工所についての文章を書き進めていく中で，自身の中に別々に存在していたキーワードが少しずつ繋がりを持つ感覚を覚えた．それは一つの対象を追求することで，見えることのなかった全体像を捉えた体験である．本文の執筆は作品制作と同じような工程を踏んで，見えない世界を表現しているのではないか．そう考えると私が制作の中で行っている行為は，鑑賞者も別の場所で体験している気がする．私は研究テーマが明確になったことで，様々な事柄に関して新たな視点を得たように思う．物事を見つめる解像度が上がったような感覚である．図❼　展示風景「多摩美術大学助手展―intermixed―」，2020 年，FEI ART MUSEUM YOKOHAMA図❽　《2019 年 10 月 20 日　石川鐵工所にて》追加作品，H 70×W 125×D 5 mm60　多摩美術大学研究紀要　第 35 号　2020 年　最後に「多摩美術大学助手展―intermixed―」での展示を振り返ってみる．最初は 3 点での発表を予定していたが，実際に展示をした感覚で，急遽 1 点を追加した．（図❼❽）それにより L 字の展示空間を有効的に使えるようになり，より作品全体のつながりが見えてきた．4 点目の作品は，作業量，サイズ共に他の 3 点には及ばないが，全体として見たときに大きな存在感を放っていたように思う．その理由は作業時間の制約があったことで，半ば強制的に自身の思考的・作業的な癖から抜け出せたからではないだろうか．この経験を踏まえ，今後は意図的に制約を課して制作に取り組んでみたい．制作における自身の癖を理解することで表現の幅がさらに広がる気がしている．

木を見て森をみる（ミクストメディア）

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