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    セイネンキ ニオケル ジコハッケン シエン システム ノ カイハツ ト ヒョウカ

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    情報社会、生涯学習社会、国際社会といった新しい社会の到来により、多様な生き方が模索され、以前より増してしっかりとした自己を持つことが必要とされる時代となった。このような時代の中で、自分を見直し、自ら自分を育てていくために自己について学び、自己を確立することはますます重要になってくる。しかしその変化に対応した教育システムはいまだ十分に整備されているとは言えない。特に社会へ旅立つ前の準備期間である大学において、このような学びの支援が必要である。そこで本研究では、急激に変化する新しい社会の要請に応える意味で、自己実現への道のりを支援することを主盟におき、青年期の若者である大学生のための自己発見に関する研究を進めていくことにした。自己の確立時期である青年期に、自己に関する学びを行うことで、自己を適確にとらえ、より充実した人生を送るための支援をすることを本研究の目的とする。その方法として、学習者がお互いに交流しながら自己について学ぶ機会をつくると共に、Webもあわせて用いる自己莞見支援システムの開発と評価を行う。論

    青年期の自己表明に関連する心理的要因についての探索的検討 : 半構造化面接を用いて

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    青年期の適応をめぐる問題の中で大きな位置を占めるものに友人関係がある。友人に対し自分の意見をはっきり言えないことから, あるいは逆に自分の意見を一方的に主張してしまうことから, 結果的に適切な友人関係を持てなかったり, 友人との関係に悩みを持つ者も多い。友人関係の中で自分の気持ちや考えを率直に表明しあうことは, 自分らしさを求める基本的な欲求であり, また相互理解のための基本となる。こうした自己表明のやりとりの能力の獲得は青年期の重要な発達課題の一つと言えるが, その心理的背景について検討されたものはみられない。青年にとってどのような感情や考えが友人との率直なやりとりを支える, もしくは妨げる要因となっているのであろうか。本稿ではその手がかりを得るために, 面接調査を用いて探索的な検討を行った。友人関係の中での自己表現のあり方を先行研究 (柴橋, 2001) に基づき, 「自己表明」と「他者の表明を望む気持ち」の2つの側面から捉えて4つに類型化し, 各類型に属する中学・高校生16名を対象に半構造化面接を行い, 各被験者の特徴, および, 各類型の特徴を分析した。4類型の特徴の比較から, 次の5つの要因に違いがみられ, これらが自己表現のあり方と関連している可能性が見いだされた。(1) 自己表明することに対しての価値感, (2) 自己表明を受けとめてもらえた体験と友人への信頼感, (3) 他者の気持ちへの配慮や内省的な視点, (4) 熟慮性や攻撃性, (5) 言語化することへの自信。本調査の結果から, スキルの問題や性格特性だけでなく, 自己表明することへの価値感やこれまでの体験, 内省的な視点などが大きな影響を及ぼしていることが示唆された。この点は, 青年期の自己表現援助のあり方において十分考慮すべきことと言える。ただし, 本研究は探索的なものであり, 今後さらに, 多くの被験者を対象に実証的な検討を重ね, 心理的要因と自己表明との関連を明らかにしていく必要がある

    中学生の円滑なコミュニケーションを促す授業実践 : 自己理解と自己表現に着目して

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    コミュニケーション能力は,社会において他者と関わる上で必要な基礎的能力と位置づけられ,その育成への取り組みが求められている。本稿では,中学校1年生を対象とし,生徒に自己を多面的に捉え表現することを促す授業実践について報告する。また,同授業実践における自己の捉えの推移を分析したところ,自己への捉えを見直したり,自己を表現することの良さに気付いたりする機会となること,他者理解においても有効であることを示す

    可能の意味と構造

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    可能を表す形式の意味について,それに隣接する意味を含めて構造的に捉え直す。可能とはいかなるものであり,どのようにして統一的な理解のもとに構造化できるかが本論の目的である。可能の形式「できる」には「能力可能」と「状況可能」とがあり,「る・らる(れる・られる)」には,「自発」「可能」「受身」「尊敬」といった,統一感のない意味が併置されている。これらを自己非自己理論のもとで階層的な構造として再構築する。その結果,そもそもの「可能」は「出現」となり,「出現」は「自己的出現」としての「可能」と「非自己的出現」としての「受身」となる。「可能」は「自己的可能」としての「能力可能」と「非自己的可能」の「状況可能」となる。「受身」は「自己的受身」としての「自発」と「非自己的受身」としての「尊敬」となる

    The Theory of self-completion of Ogyu Sorai : On "the theory of Unchangeability of Human Nature"

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    江戸中期の儒学者荻生徂徠(一六六六-一七二八)の学が朱子学体系の批判を基に成立していることは周知の事実であるが、描く人間像-あるべき自己の措定の仕方、及びその成就の道筋の描き方-について見ると、両者の相違はことに顕著である。人格的完成者たる「聖人」を人間の理想的な模型として措定し、それへの到達を目標に自己修業を行うことを当為として要請する朱子学に対し、徂徠は人間が共有する普遍的理想像というものを予め提示しない。つまり、徂徠は「聖人」に成るという一元的な自己完成の型を否定するのである。逆に徂徠は、「聖人」に成る為に取り除かなくてはならない第二義的な性質-各々の存在の多様な個性-を重視する。徂徠は、この個性の尊重の観点から、各々の存在が生来の個性を成就させた状態こそが人間のあるべき有り様にほかならないと考えるのである。換言すればそれは、自己自身に成りおおせることを目指すものであった。このような、生来の個性を重視し、人間の理想像を多様なものとして措定する考え方は、思想史上同じ古学派に属し、朱子学批判から独自の学問体系を構築した山鹿素行や伊藤仁斎らのスタンスと軌を一にする。彼らの共通スタンスは、「聖人」という完成された理想的人格の桎梏によって抑圧され、軽視された人間の情的活動性の見直しを図り、生き生きとした人間像を構築し直すことであった。素行が「已むことを得ざる情」、すなわち心の奥底から自然に湧き出る「誠」の情を、仁斎が他者に対する純一な誠実さとしての「忠信」を、それぞれ人間の本性の核に据えたのと同様に、徂徠は特に、人間の持つ各々の個性の価値を位置付け直すことで、それを図ったのである。徂徠はこの試みを朱子学の人間本性論及び自己修養論の基盤となる気質変化論を否定することによって綿密に行った。本論ではこの視点を〈気質不変化論〉とし、これを軸として展開する徂徠におけるあるべき自己像の有り様及びその成就の過程を明らかにすることで、その人間観の素描を試みたい
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